札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「人を偏り見ない方」
使徒言行録10章34節〜48節
牧師 堤 隆
 8月27日主日聖霊降臨日礼拝説教から 
「教会の声」説教(2017年9月号)

  そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。
  わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」
  ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。それから、コルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在するようにと願った。 
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



  ペトロは神様というお方は人を偏り見ない方であると、驚きをもって本当によく理解しますと「どんな外国人でも」と言いました(35節)。ペトロにとって人を偏り見ないとなれば、すぐに外国人のことが思い浮かんだようです。ユダヤ人にとって外国人・異邦人はどうしても偏り見てしまう人々でした。しかし、神様はその異邦人を偏り見られない。これはペトロにとって驚くべきことでした。「どんな民族の者においても」(直訳)です。ユダヤ人がどこに住んでもというのではありません。28節の「外国人」の「他民族」(直訳)です。ペトロは自分たちユダヤ民族は他民族とおつき合いをしてこなかったのは「律法で禁じられて」いるからと申します。他民族は律法をもたず御心を知らないから汚れている。だから、付き合わないできた。自分たちは律法を持っているから特別だと思っていました。確かに特別なことです。しかし、「特別」の意味が違っていました。自分たちは他民族と比べたら特権階級であると考え違いをした。有り体に言えば、自分たちは神様に顔が効くと思った。特別な民をされたことをはき違えました。もしも、わたしたちが自分は長く教会に来ているから神様に顔が効く教会でも顔が効く、だから多少のわがままも許されると思うのではキリスト者とされていることをはき違えています。
 ペトロは人を偏り見ない神をコルネリウスとの出会いから良く理解するようになり、みことばについても読み違えも糺されました。聖書の言わんとするところが分かるようになりました。神の民が特別な存在であることはアブラハムに始まったことです。創世記の12章にあります。神はアブラハムに「祝福の基となるように」とおっしゃいました。基・源ですから、アブラハムの受けた祝福が他に広がって行きます。「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」。他に広がって行きます。使徒言行録が「他民族」、「どんな民族」と言いますのはこのアブラハムの祝福を念頭に置いていたからと思われます。神の民は祝福の源とされた点で特別です。ですから、顔が効く特別さではなくて、他の民族がすべてこの基から祝福に入れられる点で特別です。ペトロはこれを確信して「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」(35節)と言います。
 神の祝福はただおめでたいことには留まりません。ペトロはそれを説きます。自分たちは十字架の証人であるとともに復活の証人でもあること。この証人であることを「御一緒に食事をしたわたしたち」だからと申します。ここはもっと実感が籠もった言い方になっています。「彼と共に食べ、共に飲んだ」と言っています。ひとつひとつ述べています。わたしが実際に共に食べ飲んだあの方が、十字架に架かり復活なさったことを経験した。だから、どこでもだれにでも証人として証言出来る。それで証言し出来る。甦って今も生きておられる主は「生きている者と死んでいる者との審判者」であられると(42節)。審判者と言いましても滅ぼす方と言いたいのではありません。神様から離れて死んだままの者を赦し、生きる者としてくださる方のことを言っています。
 ペトロの説教が罪の赦しに及びましたところで、「なおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った」(44節)。語るペトロには既に聖霊が降っていました(19節)。聖霊が注がれて語られたみことばに聴き入る者たちの上にもせいれいが注がれました。これは今日のこの礼拝にも起こっていることです。「聖書は聖霊の照明によって神のことばとなる」とわたしたちの教会の先達が言っているとおりです。みことばが出来事となるとも言われるところです。聖霊は神様のこころを実現すると使徒言行録は申します。そこで「ペトロと一緒に来た人」、「ヤッファの兄弟たち」即ち、ヤッファ教会の教会員は「聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見」ました。そして、みことばが聖霊によって実現するのを見たこの人たちも証人とされます。そして人を偏り見ないお方によって教会の絆が生み出され、わたしたちの教会にまで引き継がれています。
 

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