札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「無知の罪を」
使徒言行録17章16節〜34節
牧師 堤 隆
 11月26日主日礼拝説教より
「教会の声」説教(2017年12月号)

 パウロはアテネで二人を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。それで、会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた。また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論したが、その中には、「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」と言う者もいれば、「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言う者もいた。パウロが、イエスと復活について福音を告げ知らせていたからである。そこで、彼らはパウロをアレオパゴスに連れて行き、こう言った。「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ。」すべてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである。パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。皆さんのうちのある詩人たちも、/『我らは神の中に生き、動き、存在する』/『我らもその子孫である』と、/言っているとおりです。
  わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。それで、パウロはその場を立ち去った。しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



 アテネで伝道を始めたパウロはこの町が偶像的なものに捕らわれていることを見ましたが、憤慨はしませんでした。アテネの人々を見下すことも、逆におだてたりすることもしませんでした。「あなたがたが信仰あつい方である」というところは、「神々を恐れる(直訳)」です。アテネの人々が人間を越える神々を恐れていると見ました。それは「知られざる神」という碑文を見たときに確信しました。日本の八百万の神に近いかもしれません。直訳は「無知の神」です。もちろん、神が無知だというのではなく、自分たちが無知である神のことを言っています。パウロはここに伝道の足掛かりを見つけました。自分たちは無知であっても、神に心を向ける人々と見て伝道を始めました。
 22節から31節はアテネでのパウロの伝道説教です。ところが、注解者たちは議論を始めます。自然界に神を求めるとか、人間が神の子孫であるという内容はいかにもギリシァ的考えだというわけです。それで、これはパウロのものではないとか、著者ルカの作文ではないかと推測します。しかし、これまでに小アジアの異邦人にした説教(14:15?17)と内容的にぴたりと一致しています。@偶像から離れるように、A神は天地の造り主、B神は罪を忍耐しながら恵みを与え続けられた。これらの点で一致しています。偶像的な町アテネでパウロは、福音の説教など聞いたことのないギリシア人に分かるように話したものと思われます。あなたがたにとって「無知の神」は、実は世界の造り主である。だから、人々に仕えられる必要はない。むしろ、神が人々を生かしておられる。それを人は見いだすことができる。だから、世界と人々の主である神を偶像にして、人が神を支配してはいけないと説教しました。
 パウロの伝道説教はギリシア人の偶像崇拝を糺すだけでなく、神は「無知な時代を大目に見てくださいましたが」と続けています。この「無知」と「知られざる」とは同じ語です。こう言って無知の罪を取り上げています。神様はアテネの人々が無知の神としていることを大目に見てくださってきた。そこには、神の忍耐がある。しかし、ただ我慢してこられたのではない。「今は」は「今や」と読むべきです。主である神を従えて偶像にする無知の時代を、神は忍耐してこられたが、しかし、「今や」です。無知の罪をあわれんで忍耐してこられた神が「今や」その無知の罪を悔い改めるようにと命じておられる。神は今や、方向転換を迫っておられる。自分が主で、神をも従えられるという考えを180度転換せよと迫っておられる。神様は主イエス・キリストによって裁くをお決めになっている。主の復活が悔い改めの保証であると言います。反省したところで赦されるはずもないことは、わたしたちの周りにはいくらでもあります。いったん人の心やからだを傷つけたら反省ではすみません。例え相手が赦してくれたとしても、犯した罪が消えることはありません。主イエスの復活は、その罪の中からの復活を保証するとパウロは申します。この保証があるから、われわれは恥を忍んで、否、喜んで悔い改めることができます。
 パウロの説教の結論は「赦される保証は主の死者の中からの復活にある」でした。パウロはこれを「広場」でも「アレオパゴス」でも語りました。アテネでの伝道は死者の復活を語ることに終始しました。しかし、ほとんどの者があざ笑い退けてしまいました。無知の罪を悔い改めることができるようにしてくださっている神様を退けて止みませんでした。それで、パウロは「その場を立ち去り」ました。伝道には退くときもあるということです。しかし、そのような伝道の困難の中にあっても「彼について行って信仰に入った者も、何人かいた」といいます。この「ついて行って」と訳される語は「くっついて行く」が原義です。具体的にその人たちの実名が記されています。立ち去られるのとは反対に、くっついて行くほどに従う人を神様は与えてくださった伝道の実際をこのように報じています。ですから、わたしたちも伝道の困難に臆せず、無知の罪を悔い改めさせてくださる神様を宣伝えるように遣わされたいと思います。 
 

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