札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「永遠の初めからあったもの」
ヨハネによる福音書 1章1節〜18節
牧師 堤 隆
 12月24日クリスマス礼拝説教より
「教会の声」説教(2018年1月号)

 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
  律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



 ヨハネ福音書は「初めに」と言って始めています。マルコ福音書も「初め、イエス・キリストの福音の」と始め、創世記も「初めに、神は天と地を創造された」と始めています。マルコは「イエス・キリストの福音の始まり」を語りだし、創世記は「天地の始まり」と語りだしています。それぞれのスタート、開始を言っています。それに対してヨハネは始まり・開始のことでは無く「初めに言があった」と言います。世界ではどんな言葉が最初に話し出されたかということではありません。言葉の開始のことを言うのではない。マルコや創世記の「はじめ」は「始」で、ヨハネは「初」です。ヨハネは言の初め、順序を語ります。「第一に言があった」、もうそれ以上に前がない初めにです。初めの初めに言があった(過去形)。「初めには、もう言があった」。初めを問題にするの今を問うからです。創立記念日はただ懐かしむためではなく、今の自分たちを問う日です。ヨハネ福音書は「永遠の初めに言があった」といって、今のわたしにもこの変わらぬ言があるだと申します。
 「万物は言によって成った」は「彼によって成った」と書いてあります。人称代名詞です。言は人のことだと申します。「彼」は主イエスのことです。主はナザレにお生まれになる前から既におられて、天地創造にもすでにおられて参加しておられた。これは屁理屈ではありませんし、哲学議論でもありません。主の居ましたまわない時は無いことを言っています。
 この永遠の初めからいましたもう主イエスを受け入れる人には神の子となる資格が与えられる。父は神様です。親子。人間の他人同士以上にかけ離れている神と人ですのに、神様は人を我が子イエスと同じ資格を与えてくださいました。親子の交わり、深い交わりに入れてくださいました。こう説きますとヨハネは「言は世に来た。世にあった。」と申します。永遠の初めからあった言が人間と同じになられた。「肉となって」(6節の「いて」=「成った」と同じ)です。神様に対しては用いない語が「肉となって」には使われています。イエス様が神の御子、神から遣わされた神であることを忘れてしまったのではありません。ヨハネと同じ人間になってくださったと言いたいようです。罪以外、全くわれわれと同じ人間になってくださった。飢えも渇きも、悩みも喜びも、すべてを共にしてくださった。それは闇に佇む人間を「神によって生まれた」神の子にするためでした。これによって「わたしたちはその栄光を見た」。肉を持つ人間が神との交わりに生きることを体現する主イエスに光どころか栄光を見ました。それは「独り子としての栄光」です。孤高を保つばかりのまばゆくて見ることのできないものではなく、「恵みと真理に満ちて」おられる栄光です。われわれ人間にとって恵みであり、人間にとってその恵みは嘘偽りは無く、まことに満ちるものでした。
 「わたしたちはその栄光を見た」と申しますが、「いまだかつて、神を見た者はいない」とも申します。主イエスは見ることができましたが、神を直接見たのではない。なぜ、このように水を差すようなことを言うのかというと、人間につきまとう誘惑があるからです。「神をみたい。見せてくれたら信じよう。」という誘惑です。これでは歪んだ人間の欲望を晒すだけです。人間の都合、勝手では神を見ることはできない。それで、神の独り子だけが神を示されました。神は永遠の初めから、人格的な交わりの中におられ、人間とも人格的な交わりを求めていてくださる。わたしの子となって生きて行きなさいという熱いみこころを向けていてくださいます。それをヨハネは証します。「この方について証しをし」。ここは現在形で言われています。洗礼者ヨハネは今現在も証していると申します。「わたしよりも先におられ」ということは、永遠の初めからおられたことを言っています。永遠のはじめからあった言=主イエス・キリストが、わたしたちの恵みと真理になってくださった。これは永遠に変わらぬことで、今のわたしたににも当てはまると申します。永遠の初めからあった言に聴いて、信じて、生かされて参りたいと思います。  
 

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