札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
良心を保つ努力
使徒言行録 24章1節〜27
牧師 堤 隆
 2月25日礼拝説教より
「教会の声」説教(2018年3月号)

 五日の後、大祭司アナニアは、長老数名と弁護士テルティロという者を連れて下って来て、総督にパウロを訴え出た。パウロが呼び出されると、テルティロは告発を始めた。「フェリクス閣下、閣下のお陰で、私どもは十分に平和を享受しております。また、閣下の御配慮によって、いろいろな改革がこの国で進められています。私どもは、あらゆる面で、至るところで、このことを認めて称賛申し上げ、また心から感謝しているしだいです。さて、これ以上御迷惑にならないよう手短に申し上げます。御寛容をもってお聞きください。 実は、この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の分派』の主謀者であります。この男は神殿さえも汚そうとしましたので逮捕いたしました。(†底本に節が欠落 異本訳<24:6b-8a>)そして、私どもの律法によって裁こうとしたところ、千人隊長リシアがやって来て、この男を無理やり私どもの手から引き離し、告発人たちには、閣下のところに来るようにと命じました。 閣下御自身でこの者をお調べくだされば、私どもの告発したことがすべてお分かりになるかと存じます。」他のユダヤ人たちもこの告発を支持し、そのとおりであると申し立てた。
  総督が、発言するように合図したので、パウロは答弁した。「私は、閣下が多年この国民の裁判をつかさどる方であることを、存じ上げておりますので、私自身のことを喜んで弁明いたします。 確かめていただけば分かることですが、私が礼拝のためエルサレムに上ってから、まだ十二日しかたっていません。神殿でも会堂でも町の中でも、この私がだれかと論争したり、群衆を扇動したりするのを、だれも見た者はおりません。 そして彼らは、私を告発している件に関し、閣下に対して何の証拠も挙げることができません。しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。さて、私は、同胞に救援金を渡すため、また、供え物を献げるために、何年ぶりかで戻って来ました。私が清めの式にあずかってから、神殿で供え物を献げているところを、人に見られたのですが、別に群衆もいませんし、騒動もありませんでした。ただ、アジア州から来た数人のユダヤ人はいました。もし、私を訴えるべき理由があるというのであれば、この人たちこそ閣下のところに出頭して告発すべきだったのです。さもなければ、ここにいる人たち自身が、最高法院に出頭していた私にどんな不正を見つけたか、今言うべきです。彼らの中に立って、『死者の復活のことで、私は今日あなたがたの前で裁判にかけられているのだ』と叫んだだけなのです。」フェリクスは、この道についてかなり詳しく知っていたので、「千人隊長リシアが下って来るのを待って、あなたたちの申し立てに対して判決を下すことにする」と言って裁判を延期した。そして、パウロを監禁するように、百人隊長に命じた。ただし、自由をある程度与え、友人たちが彼の世話をするのを妨げないようにさせた。
  数日の後、フェリクスはユダヤ人である妻のドルシラと一緒に来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスへの信仰について話を聞いた。しかし、パウロが正義や節制や来るべき裁きについて話すと、フェリクスは恐ろしくなり、「今回はこれで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことにする」と言った。だが、パウロから金をもらおうとする下心もあったので、度々呼び出しては話し合っていた。さて、二年たって、フェリクスの後任者としてポルキウス・フェストゥスが赴任したが、フェリクスは、ユダヤ人に気に入られようとして、パウロを監禁したままにしておいた。

 そこで、パウロ自身が述べているところを中心に見ていきたいと思います。弁論の頂点は16節です。「こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つよう努めています。」この一言からしてもう権力志向、権力迎合というレベルのことはパウロには無関係であると分かります。良心を保つ努力を第一のことに掲げています。この「良心」については既にユダヤ議会で証言した時に真っ先に語りました。「わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました」と。この世の「権力」を代表するユダヤの最高法院の前でもローマの総督の前でも、権力ではなく良心を指向しています。決して個人的な「私」ひとりのことにしていません。また、「私」を宗教の世界に閉じこめることもしていません。良心に従って神の前で生きることは、宗教の世界でもこの世の権力のもとでも公に主張できると確信しています。23章を読んだ時にも申しましたが、この「良心」は私たちの「良い心」とは違います。原語には「良い」という意味すらありません。シュネイデーシスは「シュン・共に+エイデーシス・見る」です。誰かと共に見る、もちろん神と共に見ることを言います。これはラテン語でも同じでした。「コン・共に+シエンチア・知る」。神と共に知ることを良心という。こういう理解の中でパウロは、自分は生涯かけて「神と共に見る良心を保つ努力をしてきた」と申します。己の主義主張を神のものと言い張る原理主義・熱狂主義とは違います。神と共に見る人は、人からも責められることのないようにする。パウロ自身、そのように努力してきたと言っています。パウロが権力に反抗的であったか、逆にこびていたかは、どちらも当たっていません。ルカは側近くで接して証言しています。そして、このパウロのあり方こそ自分たち信仰者のあるべき姿であると訴えています。

 パウロの良心の公正さということでは、総督フェリクス夫妻との関わりによく現れています。この夫婦はユダヤ人に受け入れられていませんでした。フェリクスが割礼を受けずにユダヤ人女性を妻としたからです。おまけに、妻としたドルシラは既婚者であったので魔術を遣って離婚させたうえでのことでした。この夫妻とパウロとの関係はヘロデ王夫妻と洗礼者ヨハネとの関係とそっくりです。自分の兄弟の妻ヘロディアを横取りしたヘロデをヨハネは批判したために首をはねられました。パウロもフェリクスに「正義や節制や来るべき裁きについて」話しました。ヨハネ同様権力者の罪を指摘しました。「イエス・キリストへの信仰」の先駆者も「イエス・キリストへの信仰」の後継者も共に権力におもねることはありませんでした。あくまでも、信仰の良心で権力に対しました。これは権力に対してだけだはなかったと思われます。いつでも、どこでも、だれに対しても貫かれていたようです。わたしたちも、この信仰の背筋とも言うべき良心を保つ努力を続けたいと思います。 

 

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