札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
神の民の新たな創造
エゼキエル書36章22〜32節
牧師 堤 隆
 5月20日 聖霊降臨説礼拝説教より
「教会の声」説教(2018年6月号)

 それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる、と主なる神は言われる。わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる。わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる。わたしはお前たちを、すべての汚れから救う。わたしは穀物に呼びかけ、それを増やし、お前たちに飢えを送ることはしない。わたしが木の実と畑の作物を豊かにするので、二度と飢饉のために、国々の間で恥をこうむることはない。そのとき、お前たちは自分の悪い歩み、善くない行いを思い起こし、罪と忌まわしいことのゆえに、自分自身を嫌悪する。わたしがこれを行うのは、お前たちのためではないことを知れ、と主なる神は言われる。イスラエルの家よ、恥じるがよい。自分の歩みを恥ずかしく思え。
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



 聖霊降臨日のこの日、エゼキエル書を読んでいます。モーセに率いられたイスラエルの時代と主イエスの時代の丁度真ん中あたり、バビロン補囚の頃に預言したのがエゼキエルです。補囚民はエルサレム残留者から「神から離れた」と言われると、自身は「父たちが酸い葡萄をたので、子供たちの歯が浮く」と先祖のせいだと言いました。嘲られたら誰かを嘲った。預言者はそれを「石の心」と呼びます。

 この泥仕合の様相を「お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名」と神は言われる。神の民とされた者たちが互いに嘲り罵って泥沼にはまっている。しかし、それは実はわたし(神)の顔に泥を塗っている。神は只立腹しておられるのではありません。神の民の汚れをご自分のこととして受け止められます。これは信じられないことです。神の民のために神ご自身が泥を被られる。こんな神は他にありません。泥沼に落ち込んだ民は、もう自力ではにっちもさっちも行かなくなっていました。何より心が動かなくなっていた。それを心が石と化していると言います。化石のような心ではどうにも身動きがとれるはずはありません。心が石のように物と化していては動かない。そのような中で預言者は只一人行動するお方がいることを発見します。神の民を取り、集め、導き入れる(24節)神様を見いだしました。「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる」と神は言われる。この「振りかける」はもっと荒々しい言い方がされています・「ぶっかける」と言うのがぴったりです。神様は泥まみれの民にきれいな水をザァーとぶっかけてごしごしと洗って清められる。そんな光景です。先ほど神様が泥を被られたと言いましたが、今度は神様は泥で汚れた水が飛び跳ねてご自分に降り懸かるのもかまわずザァーザァー水をかけ、ごしごし洗われる。わたしはこどものころ、どろんこになって遊んで家に帰っていたころのことを思いだしました。母はまだお風呂を沸かしてないというので、行水を使わせました。それこそ、頭からお湯をザァーとかけて、痛くなるほどごしごし擦られました。きっと神様もわたしの母のような心境で民をきれいにされたものと思われます。是が非でもきれいにしたい。その思いは徹底しています。「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を置く。また、わたしの霊をお前たちに中に置き〜(26〜27節)と言われる。「与え〜置く〜与える〜置き」は原文ではすべて「与える」と書いてあります。神は石の心に代えて与える与えると繰り返し言われます。人にも神にも心閉ざしている者たちに血の通った暖かい肉の心を与える。それが新しい心新しい霊です。

 神様から新しい心と新しい霊をいただくとどうなるか。27節では「わたし(神)の霊」を与えると言われ、28節では「わたしの民〜お前たちの神」と言われています。神様と民の関係回復です。二人称で呼び合える人格的な交わりの回復。神様の顔に泥を塗るようなことをした民が今や「わたしの民」と呼んでいたただく。神おひとりが立ち働いてくださった上でのことです。わたしたちは聖霊降臨日と言うと聖霊が注がれて教会が生まれた日と直ぐに答えることができます。しかし、実はその聖霊を受け止めるわたしたちの心と霊もまた神様からいただくものである。汚れて固まって石の心と化していた者が清められて聖霊を受け止めることができる新しい心、新しい霊を授けられた。そうして「お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる(28節)〜荒れ果てていたこの土地がエデンの園のようになった(35節」からであると言われます。新たなエデンの園に住むのですから、神の民の新たな創造です。徹底した神のみ業です。

 どうして、神様はここまで徹底して神の民を新しく創造されるのか。神は「お前たちのためではなく〜わが聖なる名のために行う(23節)」と言われます。ただ神の神たる故にです。それがわたしたちにとっては新しい心で聖霊を受けて罪を悔い改めることとなりました。

   

 

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