札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
渇ききってしまう前に
ヨハネによる福音書 4章1節〜26節
牧師 堤 隆
 8月26日礼拝説教より
「教会の声」説教(2018年9月号)

 さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、 ――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである―― ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった。それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」 
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



 本日は少し長く聖書をとって礼拝を守っております。主イエスとサマリアの女との出会い、対話の場面ですので、途中で切ることができませんでした。数えてみましたら、受け答えは6回になっていました。ある注解書では、このサマリアの女はニコデモと同じく「愚かな対話者」であると解説されていました。確かにニコデモは主から「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われますと、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と答えました。ニコデモは洗礼によって神の子に生まれ変わることを理解しませんでした。このニコデモの愚かさと同じものがサマリアの女にもあるという訳です。主が「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われると、女は「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみにこなくてもいいように、その水をください」と言いました。永遠の命に至る水のことが言われているのに、水汲みをしなくてもいい便利な水のことと思っている。この無理解がニコデモの愚かさと同じだと言います。確かに、打てば響く会話とは言い難いところがあります。最初はかみ合っていませんでした。愚かな対話者と呼ばれても仕方がないところがあります。更に、この女に対して気の毒な見方もあります。曰く「ふしだらな女」だと見る。18節では、女自身が、かつて5人の夫を持ち、今は結婚していない者と同居していると言っています。これがみだらと見られるようです。もっと、酷な見方をする人もいます。この女は売春婦ではなかったかと言う。わたしは、このようにこの女性をおとしめておいて、そんな者が救われたのだという聖書の読み方はいかがなものかと思っています。当時は夫を何人も持っていたからといっても一夫多妻の逆のようなことではありませんでした。ふしだらなことではなかった。当時は大抵の成人は40歳ぐらいで死んでしまう早死にの時代でしたから、夫を3人4人と持つことはとりわけ珍しいことでは無かったようです。まるきり寡婦となってしまったら、路頭に迷うか、それこそ売春婦になるしかない時代でした。それで、夫と死に別れると夫の兄弟に嫁ぐことがなされました。レビラート婚という週間にまでなっていました。サドカイ派は主を陥れようとして復活があるなら、その時だれの妻になるのかと詰め寄りました。その論争では7人の夫と言われています。そうしますと、サマリアの女の5人の夫というのは、3〜4人よりは多いですが、7人よりは少ない。多からず少なからずというところです。これを「ふしだらな女」と言っては不当です。ふしだらでなくとも、売春婦でなくとも、寡婦となれば一人では生きていけない時代でした。サマリアの女は崖っぷちのぎりぎりの所に立っていました。
 本日の聖書の箇所には「渇く」と何度も出てきます。キイ・ワードになっています。まさにこの女の現状を言い当てています。女は渇いていました。わたしは、愚かな対話者、ふしだらな女と見るのではなく「渇く女」と見ます。人に渇き、生きることに渇いている。心は今まさに干からびそうでした。女は愚かとかふしだらと言っても済まない、もっと深刻な状態にありました。渇ききってしまう一歩手前です。

 「渇き」は、この女の対話相手となっておられる主にもありました。7節で「水を飲ませてください」と求めておられますから、喉が渇いておられたと分かります。理由は6節の「旅に疲れ」とあります。運動疲労だけではありません。疲れてもなお旅するほどに、主を突き動かしていのが、渇きでした。主はファリサイ派との無用な誤解を避けたガリラヤほの旅に出られました。本来の伝道をするためです。主は伝道することに渇いておられました。それで、4節(読む)。ユダヤからガリラヤへは、当時不仲なサマリアを避けるのが一般的でした。地中海沿いに北上するか、一旦ヨルダン河を東に渡って北上するかの二つのルートが採られました。それを主はどちらのルートも採らずに最短距離の中央ルートを採られました。これも伝道への渇きの現れです。

 さて、注がれることなく渇く女と、注ぐことに渇かれる主との出会いが起こります。ヤコブの井戸そばにおいてでした。6節には、わざわざ「正午ごろのことである」と時刻が断ってあります。これは時間経過よりも、陽が一番高くなるころと言いたいようです。普通、井戸の周りには人が集まります。そのため井戸端会議も自然発生します。しかし、この地方の正午には、暑くて誰も水汲みには来なかったといいます。わたしも経験があります。阪神淡路大震災のとき、大阪の教会に仕えていました。真っ先にリュック2リットルのペットボトルを2本詰め込んで、神戸に向って歩き出しました。4キロの水で、すぐに肩紐が肩に食い込み、本当に歯を食いしばって大阪から神戸まで歩きました。水は重い、水汲みは重労働であると身を持って知りました。ですから、正午に水汲みに来る人などいないことはよく分かります。それから、主に従っていた弟子たちもここにはいませんでした。正午ごろであったからです。8節に、お昼を調達するために町に行っていたとあります。そんなところに、「サマリアの女が水を汲みに来た」。要するに、主とサマリアの女は二人切りで出会われたということです。出会いは、主が「水を飲ませてください」と声をかけられたところから始まりました。実はこの声かけにも二人切りの出会いであったことが窺えます。ここは、直訳すれば、「わたしに飲ませてください」となります。二人切りと言っても、密やかなということではありません。「わたし」と「あなた」という二人称の出会いを言います。何か畏まった硬苦しいばかりの出会いではありませんでした。「わたしに飲ませてください」という日常会話で始まっています。著者ヨハネはこれを、何か特別なこの女に限ったことではなく、わたしたち一人一人にもこのように一対一で起こることだと言います。主は自然体であられました。実際に喉の渇きを覚えて、女にわたしに水を飲ませてくださいと頼まれました。真っ昼間に水を汲みに来る者は何か事情を抱えていることは明らかでした。そんな女を説き伏せてやろうなどといったところは、主には皆無です。しかし、女の渇きに敏感であられました。単なる喉の渇きではない渇きを身を持ってご存じであった主は、女の本当の渇きを見抜かれました。水汲みは朝か夕方が当たり前でした。それを正午に来たのは、明らかに人目を避けるためです。井戸端に集まる者たちの興味本位の視線を避けたかったものと思われます。女は興味本位で見られても、本当には相手にされない辛さを抱えていたようです。そんな女に主は「わたしに水を飲ませてください」と求められました。何とも自然な佇まいです。渇きを知るお方として静かに、しかし、何としてでもこの女の乾きを癒そうという秘めた熱心が窺えます。この主のおことばに女はに二重に驚きます。9節(読む)。当時、男性は外では女性に声をかけてはならないことになっていました。更に、ユダヤ人がサマリア人に声をかけることもありませんでした。この二重の隔てを飛び越しているので、女は驚いています。女は重なる差別の中で渇いていたことを暗示しているのかもしれません。渇く女に同じく渇いておられる主が声をかけられました。10節(読む)。渇く女にも、神様からの賜物があると言われます。この賜物こそ、「わたしに水を飲ませてください」との主の声かけでさう。渇くばかりの女が、だれにも相手

されない女が、主から当てにされました。「わたしはあなたを当てしている」と言われた訳です。これが、この女に対する賜物です。そして、この賜物は、求めれば与えられるほどに近くにあると言われます。主との人格的な交わりにおいて与えられるものだからです。そこで、与えられる賜物、主との交わりの中で与えれれるものを主は「生きた水」とおっしゃいます。「生きた水」と聞いた女は、11節(読む)この地方で生きた水と言えば雨水を貯めたものではない湧き出る水のことでした。女は喉の渇きを癒す新鮮な水を思い浮かべます。それで、この人はヤコブの井戸以上のものを与えるほど偉い人なのかと重い始めます。ずれてはいますけれども、主ご自身に関心を向け始めています。

  主は、女が「生きた水」を正しく理解していないことにすぐに気づかれます。それで更に「生きた水」の核心に導かれます。13〜14節(読む)。主はこの井戸の「生きた水」を飲んだとしても「また渇く」と言って女の関心を繋ぎ留められます。喉を潤す水は、どんな水でもまた渇くものである。しかし、わたしの語る「生きた水」とは「わたしが与える水」のことだとおっしゃいます。そして、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」と言われます。「決して渇かない」は大げさに言われるのではありません。「永遠に渇くことがない」ことを言っておられます。主が与えられると、その人の内で泉となり永遠の命に至るからです。人格的な交わりが生まれて続いて行きます。わたしたちは、主の名を信じて洗礼を受けました。そして、主との交わりを始めました。これは洗礼以来ずっと続いていることです。永遠の命のうちに入れられています。主との交わりの絆が永遠の命でし。永遠ですから、限られたものではありません。いついつまでとは制限されていません。この世に生きている間だけとは制限されていません。死んでも終わらない命。妙な言い方になりましたが、死んでも途絶えることのない主との交わりが永遠の命です。

 女はこれを聞きますと、15節(読む)。ここでは、まだ女はよく分かっていないと解説されます。しかし、わたしはそこまでこの女の人をバカにしてはいけないと思っています。この人は今のように水道の蛇口を開けばジャーっと水が出てくる便利な水が欲しいと言っているのではありません。「渇くことがないように」と言っています。主が「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」と言われることをそののまに受け止めた発言です。どんな水でも飲んでもまた渇く。だから、普通の水のことをおっしゃるのではないことは、この女にも分かりました。「汲みに来なくてもいいように」と言いますのも、水道の蛇口以上に、どこでも湧いて出る魔法の水が欲しいなどと子どもじみたことを言うのではありません。人目を避けたり、差別されたりしなくてもいいようにと願いです。女は次第に心の目が開かれて行きました。心の渇きを癒していただきたいと願い始めています。主がこの女に生きた水を注がれたからです。

  そこで、主はこの女が自分の渇きの正体に気づきはじめたものですから、更に自分で分かるように導いて行かれます。女の渇きの正体が16〜18節で明らかにされています。生活が追いつめられていく中で、人とのまともなおつき合いができなくなっていた。それがこの女の渇きの正体でした。そんな自分の渇きの正体を言い当てられまして、女は主と真正面から向かい合います。19節(読む)。このお方を預言者と見るには見たのですが、ユダヤ人の預言者は礼拝という信仰の中心で差別的なことを言っていると申しました。20節(読む)。ユダヤ人によるサマリア差別が厳然としてあると言います。この現状認識は間違っていません。そこで、主は21節(読む)。この「わたしを信じなさい」、先ほどから面と向かって話している「わたしを信じなさい」とおっしゃいます。とても具体的はご命令です。差別にまみれた礼拝をしなくなる時が来る。それを信じなさいとも言われます。22節(読む)。本山争いをするばかりで、だれに礼拝を捧げているかが分からなくなっていると主は指摘なさいます。具体的に、弱小の民ユダヤ人に救いをもたらしたお方を礼拝するのではなかったのか。だから、23節(読む)。救いをもたらす神を礼拝する時が来る。えあから、神は礼拝する者を求めておられる。神様は礼拝において救いを与えようとしておられる。この23節と次の24節で、「霊と真理をもって礼拝する」と言われています。このところは口語訳聖書や文語訳聖書では「霊とまこととをもって」となっていました。神様の霊が注がれると、それを人のまことが受け止める。聖霊が注がれる礼拝において、人はまことに神の真理を受け止める。礼拝における神と人との人格的交わりこそ救いである。

 そこで、主は更に続けて救いを与えてくださる神様のことを、24節で「神は霊である」と言われます。これは多分に誤解されるところです。神は霊的な存在で目に見えないけれども、実はどこにでもおられると言われていると勝手に解釈してしまう。しかし、主はこれを旧約聖書に根ざす霊として語っておられます。例えば、創世記2章に神は土の塵から人を造られると「命の息を吹き込まれた」とあります。この「命の息」は「命の霊」と書いてあります。命の霊を吹き込まれて、「人は〜生きる者となった」。この神の霊のことを主は言っておられます。どこにでも漂っている神などとおっしゃるのではありません。人を人として生かす神、救いの霊のことを言っておられます。礼拝する者は、礼拝の中でこの霊によって救いを与えられます。そういう時が来ると話されますと、女は25節で知識として知っていると申します。すると主は26節(読む)。直訳しますと「わたしだ。あなたと語っている者だ」と応じられています。知識ではなく、実際に話しことばを交わしてあなたと人格的な交わりをしているこのわたしが、キリストと呼ばれるメシアであると明言なさいました。わたしたちも渇ききってしまう前に、このお方から生きた水を注いでいただいて命に与りたいと思います。     

 

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