主はご自分の命が狙われることとなりますと「はっきり言っておく」と言って語り出されました。もちろん、「陰に回って、陰謀を企まれては困る。だから、この際はっきり言っておく」と言われるのではありません。この主の決まり文句のようなおことばについて、神学校の組織神学の時間に北森嘉蔵先生がおっしゃったことを今でも覚えています。当時、新共同訳聖書のもう一つ前の共同訳聖書が分冊で出版され始めていました。北森先生はいち早く読んでおられて、この「はっきり言っておく」について「だんだん悪くなっていく」と言われました。「文語訳では、まことにまことにであった。それが口語訳になって、よくよくと、舅の嫁いびりのようになり、今度ははっきり言っておくとまるで喧嘩腰ではないか」と大変不満げに言われたことが忘れられません。北森先生は、戦後直ぐに「神の痛みの神学」という本を出されて世界中の神学者から注目されました。鋭いめつきをしておられ、試験の出来が悪いと教室で学生を叱るような先生でした。しかし、その神学は厳しい一方ではない。「罪人を包む神は痛んでおられる。ご自分が痛んでまで罪人を愛される神」。これが「神の痛みの神学」の骨子です。こんな神学を提唱された北森先生が「主イエスがよくよく言っておく、はっきり言っておくなどとおっしゃるはずがない」と言われるので、なるほどと思って聞いていました。とすれば、本日の箇所で命を狙ってくる者に対してご自分が痛んでまで愛を貫く神の子が喧嘩腰で反論なさるはずはありません。やはり、真心から「まことにまことに」と語り出されたとしか考えられません。原文では「アーメン、アーメン」となっています。こう言って始まるところを「イエスの宣言定式」と呼んだりします。ここでも、ご自分の命を狙ってくる者たちに対して真実はこうなのだと宣言された。地上のだれもが例外なく聞くべきこと勝手に耳を塞いではならないことを語りだされたことになます。
そこで主は「これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになると言われます。これらのこととは、38年もの間病気であった人を癒されたことです。これだけでも大きな業です。この人は長く苦しい闘病の中で、なんでも人のせいにするようになっていました。そういう過激ではあっても消極的な生き方をしてきました。都合の悪いことはなんでも人のせいにして、ひとを恨めしく思うばかりでしたから、信頼というようなことはとうに見失っていました。それで、自分を癒してくれた人をさえ密告する有様でした。過酷な闘病生活はこの人をだれかを信頼する世界から閉め出してしまっていました。それで、主はこの人を甦らせておやりになりました。人としての信頼の世界に復活させられた。
そのうえで、主はこれよりも大きな業を見るようになるとおっしゃいます。そこで再び24節で「アーメン、アーメン」と切り出されます。そして「わたしの言葉を聞いて〜信じる者は」と言われました。みことばを聞いて信じる者は「死から命に移っている」。これから移るであろうではありません。現在完了形です。もうすでに移っている。復活の命に生きている。そこで、三度目に「アーメン、アーメン」と言われます。神のこの声を聞いて生きる時が来る。「今やその時である」。ここでも主の宣言です。自然にとか、自動的に命に移るのではありません。神の子・メシア・救い主の声を聞いて、命を甦らせていただいて生きる。「今やその時である」。これに続けて裁きのことが語られます。終末の時に悪人を断罪するだけの裁きのことではありません。断罪を最後の目的とはしておられません。父なる神と子なる神の間に通う愛、この愛の神を最終的に敬うようになることを求めておられます。今生きている者だけではなく、すべての者に墓の中にいる者も、地上に生きていた時に、「今その時」を神からの命として生きたかどうかが裁かれると言われます。
主は父なる神の御心が行われるのは、最後の審判のときに限らない「今やその時である」と言われます。今の一刻一刻が御心によって復活の命に生きるとき出あると。
|