しるしを見ても御心を見ない群衆が烏合の衆となってついて来るので、主は山に登られました。避けられたのではありません。この群衆を見て「この人たちに食べさせるにはどこでパンを買えばよいだろうか」と言われました。誤解と無理解の群衆をさえ養おうとされます。さてこう問われた弟子のフィリポは「二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えます。「どこで」と問われましたのに「お金がない」と答えます。フィリポは反論しています。「どこにそんなお金があるのですか?わたしたちにはありません!」と。主に問われたのはフィリポばかりではありません。アンデレも「ここに大麦のパン五つと魚二匹〜けれども〜何の役にも立たないでしょう」と言っています。彼も問われたからです。アンデレも否定的な答えをします。フィリポとアンデレは主から「どこに?」と問われましても「どこにも〜無い」、「ここにも〜無い」と答えました。二人の弟子たちもまた主のお心が分かっていませんでした。群衆と変わらない者たちでした。この弟子たちの言葉は今のわたしたちの口から突いてもおかしくありません。「どこにもない、ここにもない」という愚痴が実際にわたしたちのまわりで聞かれます。昨今の教会の教勢低下がこんな愚痴となってつぶやかれます。しかし、お金もない人もいないと嘆くばかりでは、主の御心を見失います。本日はわたしたちの教会の創立記念日です。無い無い尽くしだと言っていてはこの日を祝うことにはなりません。そこで、主が現実に無い無い尽くしの中でお示しになったところよく理解したいと思います。
主は無い無いと言う弟子たちの答えを聞かれますと、群衆を座らせられました。すると、男が五千人であると分かりました。二人の弟子たちの答えは正解ということになるところです。しかし、主はその弟子たちの正解を覆してしまわれます。パンと魚を五千人に与えて、無い無い尽くしの現実をひっくり返された。「どこに?」との問いの真の答えは「主の周りに座るところ」でした。これはこの日わたしたちに与えられた答えです。時代が変わろうと状況が変わろうと、無い無い尽くしの現実に直面するとき、どこで養われるかといえば、主の周りに座るときとの答えがここに与えられています。だから、わたしたちは今日もここにこうして主によって座らされています。
さて、パンと魚を持っていたのは「少年」であったといいます。ここに着目した巧みな解説がなされました。「少年」というまだ子どもが自分の弁当を差し出したので、大人たちは恥じて自分の弁当を出したのだというものです。大変合理的な説明です。・・・しかし、そうであったなら、ただ五千人の大ピクニックをしたことになります。ふがいない大人たちの恥晒しに終わります。果たしてそうか?わたしのいつも用いる小型の辞書でこの「少年」と訳される語を引きましたところ、括弧付きで「スレイブ」とありました。「少年」が第一義ですが、「子どもの奴隷」のことも言うことが分かりました。とすれば、五つのパンと二匹の魚はこの少年の弁当ではない。子どもの弁当にしては多すぎます。少年奴隷は主人のお供をして主人の弁当を携えていたものと思われます。主はその少年奴隷が携えていたものを用いられました。主はひとりの奴隷を用いて五千人を養われた。ご自分が奴隷となってわたしたちを養ってくださることを暗示なさいました。
質素な食べ物でしたが、「ほしいだけ分け与え〜人々は満腹」しました。主の周りに座らせていただくとき、主に分け与えていただいて満たされました。これが、今もわたしたちが与っている主からいただく恵みです。無い無いと言い募るときにも、主は恵みで満たしていてくださる。それがより明らかにされます。「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われ、そのとおりにしますと十二の籠いっぱいになりました。初めの五つのパンと二匹の魚以上になりました。弟子たちもこの籠の中からいただいて、主の満ち満ちた恵みを噛みしめたに違いありません。わたしたちも、恵みを無駄にすることなく恵みを噛みしめながら伝道に励みたいと思います。
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