札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「神を待ち望め」
詩編422節〜435
牧師 堤 隆
2月2日待降節第一主日礼拝説教より
「教会の声」説教(2018年12月号)

 涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て/神の御顔を仰ぐことができるのか。昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う/「お前の神はどこにいる」と。
  わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす/喜び歌い感謝をささげる声の中を/祭りに集う人の群れと共に進み/神の家に入り、ひれ伏したことを。なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。わたしの魂はうなだれて、あなたを思い起こす。ヨルダンの地から、ヘルモンとミザルの山から
42:8 あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて/深淵は深淵に呼ばわり/砕け散るあなたの波はわたしを越えて行く。昼、主は命じて慈しみをわたしに送り/夜、主の歌がわたしと共にある/わたしの命の神への祈りが。わたしの岩、わたしの神に言おう。「なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ/嘆きつつ歩くのか。」わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き/絶え間なく嘲って言う/「お前の神はどこにいる」と。なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。
 
 神よ、あなたの裁きを望みます。わたしに代わって争ってください。あなたの慈しみを知らぬ民、欺く者/よこしまな者から救ってください。あなたはわたしの神、わたしの砦。なぜ、わたしを見放されたのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ/嘆きつつ行き来するのか。あなたの光とまことを遣わしてください。彼らはわたしを導き/聖なる山、あなたのいますところに/わたしを伴ってくれるでしょう。神の祭壇にわたしは近づき/わたしの神を喜び祝い/琴を奏でて感謝の歌をうたいます。神よ、わたしの神よ。
43:5 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



 待降節を迎えて、「神を待ち望め」と繰り返し歌う詩編4243篇を取り上げました。待降節は未だに来られたことのないお方を待ち望むのではなく、既に来られた神の御子を待つ信仰を確かにするときです。御子は再びわたしたちのもとに訪れてくださることを約束して天に昇られました。この主のお約束を確信する時として待降節を過ごしたいと願っています。そこで、神を待ち望めと繰り返し訴えるこの詩編を取り上げました。「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう『御顔こそ、わたしの救い』と。わたしの神よ。」この一句が三度繰り返されています。歌ですから、レフレインです。しかも、このリフレインはこの歌の三つの段落を纏めています。うなだれていた魂が(第一段)、神を待ち望むようになり(第二段)、遂に神を救いと告白するようにまでなる(第三段)。見事な構成を持った美しい歌となっています。
 詩人は自分の魂がうなだれ、呻くことを鹿が谷川に水を求める姿に擬えます。「涸れた谷に」とは、この辺りの「ワジ」と呼ばれる水無し川のことです。雨期には激流となって荒れ狂うかと思えば、乾期にはカラカラに干からびた谷と化す。この鹿は枯れた谷に水を求めています。水をもとめてピョンピョンと谷を降りて行ったのですが、そこには一滴の水も見当たりません。どれ程の落胆であったことかと察しられます。詩人はそれほどに「神よ、わたしの魂はあなたを求める」と申します。どれほど「わたしの魂は渇く」ことか。詩人の魂の渇きは、満たされない不満や退屈な心の乾きという程度ではありませんでした。何よりも「いつ御前に出て 神の御顔を仰ぐことができるのか」というところにありました。礼拝できないことに対する魂の枯渇です。詩人は瀕死の病気になっていたのかも知れません。「砕け散るあなたの波はわたしを越えて行く」というのですから、詩人はただ死にかけたとは思っていません。「あなたの波」ですから、神様からの試練によると捉えています。自らの罪によって自分は死にそうであるとの自覚があります。おまけに人からは「お前の神はどこにいる」と問い詰められる日々を送っていたと言います。そんなに弱り果てているのに何もしてくれないような者がお前の神なのか。お前の信じている神は頼りにならないではないか。そんな者は神ではないのではないか。お前は信じるに値しない者を信じている。まさに信仰が問われていました。自他共に認めるざるを得ない程に、信じて礼拝できていない枯渇した状態にありました。
 詩人はそんな自分の有様を何とかしようとします。「わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす」ことによってです。その思い出とは、「祭りに集う人の群れと共に進み 神の家に入り、ひれ伏したこと」です。懐かしくも嬉しかった思い出に浸ろうというのではありません。思い出に浸ったところで現状はちっとも回復されないことを、詩人は身にしみて分かっています。それ故に余計に、魂はうなだれ呻くばかりでした。魂を注ぎ出したところで、思い出あ受け止めてくれない。うなだれ呻く魂は中空を彷徨うばかりです。その時、詩人は信仰の逆説、逆転を悟ります。信仰は自分から始まるのではないことを。「主は命じて慈しみをわたしに送り」、これが一切の始まりであると知ります。祈ることにさえ先立つのが神の慈しみであると。神の慈しみのし先行を知った時、詩人は本当に祈り始めます。「あなたの光とまことを遣わしてください」と。
 この光とまことこそ、クリスマスの主そのお方です。ヨハネによる福音書の冒頭に「初めに言があった。〜言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」とあります。更に続けて「恵と真理(=まこと)とはイエス・キリストを通して現れた」と告げています。神様の光とまことは、主イエスという人格となってわたしたちのもとに送られました。物や理屈ではなく、人間イエスという人格としてわたしたちに伴われました。詩人が魂の祈りをもって求めたお方がわたしたちには与えられています。
 それ故、わたしたちも詩人と共に「神の祭壇にわたしは近づき〜うたいます」と告白することができます。

 

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