札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「みことばが見えているか
ヨハネによる福音書8章48節〜59節
牧師 堤 隆
2月3日主日礼拝説教より
「教会の声」説教(2019年2月号)

 ユダヤ人たちが、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言い返すと、イエスはお答えになった。「わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」イエスはお答えになった。「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



 「わたしの言葉を守るなら〜決して死ぬことはない」(51節)。みことば守るか守らないかは生死に関わると主は言われます。これまでにも「わたしの言葉」と主は口にされました。「わたしの言葉に止まるなら」(31節)。ここは「言葉の中に」でした。次は「わたしの言葉を受け入れないからだ」(37節)。そして、「わたしの言葉を聞くことができないからだ」(41節)。いずれも信じたつもりなっている者の問題を指摘するときでした。主はご自分のことを罵倒する者になお「わたしの言葉」を語られたのが51節です。この「守る」と訳される言葉には「見る」という意味持つ語が当てられています。「死ぬことはない」にも同じ語が当てられています。「わたしの言葉を見るなら、決して死を見ることはない」。これで直訳です。わたしたちでも「言葉が見える、見えない」と言ったりします。「あの人の話は言い訳ばかりで、見えにくい」とか言ったりします。話が見えない。主は「わたしの言葉が見えるなら、決して死を見ることはない」と言われます。真の信仰者はみことばにじっと見入っているから、死を観察するようなことはしない。永遠にみことばを見続けて生きることができる。ことばの文字や声のことではなく「神の言葉」のことです。みことばは、御心を伝えますます。だから、もう既に永遠の命に生きられる。死ぬのは痛いのか、苦しいのか、怖いのか、、、そのように死を観察 してびくびく暮らすことはないと主はおっしゃいます。  
 このようにいわれても、ユダヤ人たちには主のお言葉が見えませんでした。「死を味わうことがない」などと言う者は悪霊に取り憑かれていると言いました。実際には「死を見ることはない」と言われたのに、きちんと聞いていません。言葉が見えていない。みことばによって永遠の真理に生きられると聞けませんでした。それどころか、「いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか」とさえいいました。下世話な言い方をすれば、「自分を何様だとおもっているのか」、身の程知らずだと罵倒しました。彼らは信じたつもりではあっても、自分の思い・計りに叶う限りで信じたのした。例えば、自分の好きなようにさせてくれる優しい人だと思って結婚したのに、違っていたと失望するのと同じです。一旦は信じたつもりになったユダヤ人たちは、自分たちの思い描く人物ではなかったので、「いったい、お前は自分を何様だと思っているのか」と言ったまでです。  
 それでも、主は真正面からお答えになりました(54節)。ご自分は自身のために栄光を求めているのではない、栄光を与えてくださるのは父であると。神様の栄光とは眩いばかりにピカピカしていることではありません。神様が最も神様らしいことを、聖書は「神の栄光」と言います。主は「人の子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」と言われました(36節)。罪の奴隷を自由民にする。これこそ神様らしい。御子は神の栄光を現す。このために御子ご自身が、「その方の〜言葉を守っている」と言われます(55節)。ここも「見ている」です。御子は御父の言葉を見守っておられる。ずっとです。アブラハムの時代から。だから、アブラハムが「私の日を見るのを楽しみにしていた」のも、「それを見て喜んだ」も知っていると言われます(56節)。アブラハムは、主のお顔・お姿を見たわけではありません。神様の栄光が現される日を見ました。みことばを通して見ることを楽しみにしていたし、実際に見た。みことばが見えたと喜びました。この主のお言葉m似非信者のユダヤ人には見えませんでした。「あなたは五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と子どものようなことを言いました(57節)。それで主は「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」と言われました。出エジプト記3章で、神ご自身が自己紹介なさったご自分の名前です。アブラハムが生まれる前からわたしはいる、永遠にいる。このわたしのことばが見えているかと問われました。
 わたしたちも、常に問われているのだと思います。共にいてくださる主のみことばが見えているかと。
 

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