あんな者は自分たちの王ではないと訴えるユダヤ人と占領軍総司令官ピラトが、真正面から対峙しています。ただ、互いに面子の張り合いをしているのではありません。ローマの権力が正式に主イエスを十字架刑に処した。それだけに終わらないことだったとヨハネによる福音書はもうします。23節には兵士たちが主の衣服を分け合ったとあります。死刑囚の衣服を分け合うことは、執行人の役得とされてました。今の感覚からしますと、下着にまで群がるとはなんとおぞましいと思われるのですが、当時衣服は高価であったようです。その当たり前の慣わしをヨハネによる福音書は「聖書の言葉が実現するためであった」と断っています。死刑囚の衣服を分け合うことは、十字架において神の御心が実現していることだと言う。十字架の下での兵士たちの行為が象徴するのは、ローマの皇帝も総督もローマ帝国全体を巻き込んで御心が実現していることだと申します。この聖書の引用は詩編22篇からです。もう思いお起こしていらっしゃる方もいらっしゃるかと思います。「わたしの神、わたしの神、なぜ、わたしをお見捨てになるのか」と言って始まる詩編です。共観福音書では、十字架上での主の最後のお言葉がこれです。主は十字架上で詩編22篇を口ずさんでおられたのではないかと、推測される程です。主ご自身が十字架は神様から見捨てられることであると深く自覚なさっていたことは間違いありません。
ヨハネによる福音書も詩編22篇を引用して、主の十字架が神に見捨てられる事であると言います。しかし、「わが神、わが神」という冒頭ではなく、衣服を分け合った方を引用しています。十字架の下の兵士たちの姿を重ねあわせてます。兵士たちは自分たちが行なっている事が聖書に書かれているなどとは微塵も思っていません。ただ、さもしく役得に与ろうとしただけです。しかし、ヨハネによる福音書はここに神の御心を見よと促します。主には、見捨てられて果たそうとしてしておられることがある。「ああ、お痛いたわしい。下着まで剥ぎ取られておしまいになって」などと言うのではありません。主の衣服が引き裂かれることは、十字架でご自身が裂かれることを象徴しているとヨハネによる福音書は申します。ご自身を分け与える御心は、神の御心であると申します。下着の方は裂かれなかったのも象徴的です。愛の絆は誰にも引き裂かれないことが暗示されています。
この十字架の下の兵士たちの光景に加えて、もう一つ十字架の元で起こったことが報じられています。「イエスの十字架のそばには」、これは何でもない場所のことだけではありません。「十字架のそば」と言うのはヨハネだけです。他の福音書は「遠くから見守っていた」です。ヨハネは「遠くから」ではなく「そば」と言います。十字架の下の兵士たちと変わらない程、十字架の近くにいた。この女性たちの近さは十字架上の主のお声が聞かれるほどであった。その女性たちの中で真っ先に紹介されるのは「その母」です。母マリア。これも他の福音書にはないことです。ヨハネによる福音書では冒頭のカナの婚礼以来となります。カナの婚礼のとき、母マリアは主を自分の息子以上には考えていませんでした。婚礼の最中に葡萄酒が無くなると、ただ何とかして欲しいと長男に訴えました。それに対して、主は「婦人よ、わたしとあなたとどんなかかわりがあるのです」と答えられました。冷たい程のお言葉です。マリアがただ長男としか見ていないので、こうおっしゃいました。そんなマリアでしたが、今や十字架の下に立たされています。そして、血肉に勝る交わりを主は十字架から生み出しておられます。十字架の主は、愛でのみ結ばれる交わりを生み出されました(26〜27節)。明らかに後の教会の基本となる交わりがここに生み出されています。「愛する弟子」一人に限りません。実際には初代教会の指導者には、兄弟ヤコブが就ていました。しかし、そのヤコブでさえ実の母を引き取ることはありませんでした。「愛する弟子」が引き取りました。敢えてこのことを告げて、血肉に勝る主イエスの愛の絆が教会にあると伝えています。
|