主は、闇の者・罪人を裁くためにではなく、救うために「わたし・光」は来たとおっしゃいます。暗闇の中にいる者とは、「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者」です。わたしの言葉を知らない聞いたこともないのではありません。そんな者をそれでも裁かないで救うと言われます。この辺りは微妙です。私のことを知らなかったとは言わせないぞとお叱りになっているのではありません。人を憚り恐れて信仰の態度を曖昧にする者のことを、主はお心に留められました。みことばを聞いてもそれに相応しくいきられないでいる者たちに。忸怩たる思いを抱いている者をわたしは裁かないと明言なさる。だからといって、みことばを守らなくていいと言われるのでない。この辺りが微妙です。この「守る」と訳される言葉は羊の番をする時のものです。羊を奪いにくる狼や盗人から護る。主はこれが難しいことをお認めになっています。難しくても奪われること無いように心に留めてくださっています。みことばを守れず、守らずもう奪われてしまっている者もいる。48節では奪われるばかりか自分のからみことばを拒んでしまう者のことがかたられます。それでも主はわたしは裁かないと言われます。「裁くものがある」と言われます。誰か他に裁く人がいるのではありません。「もの」と平仮名です。「わたしの語った言葉」のことです。その人が拒み受け入れない主のみことばが彼を裁く。この「裁く」は分ける・区別することを言いますみことばを受け入れるかどうかがその人の明暗を分ける。みことばは受け入れようか受け入れまいが生涯、終わりの日まで人は無関係ではいられない。みことばは一人の人の人生もこの世のも終わりまで明暗を分ける。
人の生涯、世の終わりまで、主イエスと無関係であり得ないのは「父が〜お命じになったから」(49節)です。ここでも44節45節と同様に「わたしをお遣わしになった父」が繰り返されています。主を見て信じるのは、この父なる神を信じることだ主は言われます。その神は、一旦みことばを聞いた者は生涯、そればかりか終わりの日までご自分と無関係にはさせないとお命じになる。50節でも「父の命令」と言われます。それは13章で更にかたられますが、13:34の「掟」は「命令」を訳し替えたものです。イエス・キリストが愛してくださったように互いに愛し合えという命令。イエスを遣わした方の愛に生きる。愛の掟です。ただ美しいだけの言葉ではありません。この愛の掟は主が叫ばれたものです。これを忘れてはならない。人からの誉れは好んでも神からの誉を好まない。そういう愛の無い闇に向かって主は叫ばれました。みことばを聞いても守らない闇の者、自分からみことばを捨ててしまいどっぷりと闇に沈み込む者に向かって叫ばれました。いつまでもあなたの暗闇に止まることの無いようにと。わたしたちの生涯、この世の終わりまでも、主は叫び続けてくださるに違いありません。なぜそう言えるのか?50節に「父の命令は永遠の命である」とおっしゃってくださっています。主の叫びを聞いて、自分が闇の中から呼び出されていると知りお応えする。そこにすでに永遠の命がある。自分の生涯ばかりか、それを超えてこの世の終わりのひまで有効な命です。
本日は聖霊降臨を記念する日です。聖霊は摩訶不思議な精霊とは全く関係ありません。聖霊の「聖」は「神さまの」ということです。神さま霊は神さまが注がれます。どこからともなく、だれともわからないものから漂って来るものではありません。聖霊は具体的実際的な神さまの力です。闇に沈み込む者を引き上げることの出来るお力です。今日もわたしたちは聖霊なる神さまに引き上げられ、父なる神さまの前に呼び出されました。聖霊はわたしたちの生涯、終わりの日まで、主イエスの叫びを届け続けてくださいます。わたしたちに主のみことばを守り、主の愛に生きよと呼びかけ続けてくださいます。あなた方の間でも、裁くことを止めて愛し合いなさいとの命令がとどけられます。そこにもう永遠の命があります。聖霊を祈り求めて、主の叫びを聴き続けて参りたいと思います。
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