葡萄の木の譬えには難しい言葉も複雑な筋もありません。主とわたしたちは葡萄の木と枝のようであると主ご自身がおっしゃいます。ところが、「実を結ばない枝は~取り除かれる」、「火に投げ入れられて焼かれてしまう」とも言われます。果樹の剪定に例えられています。わたしはずっと、剪定というのは実つけない枝を取り除くことと思っていました。しかし、前任地の教会に出入りしていた老庭師の方のやり方にそれとは違う剪定があることに気付かされました。わたしが植えたサクランボの苗を何年も刈り込み続けられました。すると、数年後に花を満開に咲かせ見事な実をつけました。「投げ捨て~火に投げ入れる」ことが第一の目的ではなく、どこまでも実をつけさせるための剪定でした。主もまたこちらの剪定を言われたようです。2節の「手入れなさる」は3節の「清める」と同じ語が当てられています。ですから、この剪定は選別、裁きが主眼にはなっていません。
この譬えの中で、非常に目につくのは「わたしにつながっていなさい」と言って始まる「つながる」という言葉です。全部で11回出てきます。それに対して「取り除く」は1回だけです。しかもこれも裁きよりも清めることを言っています。更に「つながる」は14:2の「父の家には住む所がたくさんある」の「住む所」=「とどまる所」と同じ語です。まことの葡萄の木である主の中に留まる、住み込む。主はとても具体的にお話しになられます。「わたしの話した言葉によって~清くなっている」と。野葡萄が主が話しかけてくださることによって清められる。人格的な交わりによって清めてくださる。実力主義や功績主義で切り捨てたりなさらない。木と枝という有機的な繋がりを結んで清めてくださる。それを、7節では主に繋がることは、主のことばのうちにいることだと言われ、さらに8節では「あなたがたが豊かに実を結び、私の弟子となる」と言われます。習い事で弟子入りするのとは違います。主のみことばで清められ、そのみことばの内に留まる。それを更に言い換えて12節では「わたしがあなたがたを愛した」ことだと言われます。ただ好意を抱くとか、いとおしく思うだけではありません。「友のために自分の命を捨てる」愛だと言われます。ですから、博愛主義を押し付けられるのではありません。「これより大きな愛を誰ももっていない」(直訳)。わたしだけが持っているこの愛をあなたがたにあげようとおっしゃっいます。野葡萄と化した者のために、主ご自身が剪定を受けてくださる。ご自分の身を切られてくださった。枝を切り込む前に、ご自身が十字架に切り裂かれて、わたしたちを清めてくださいました。
主は友のために命を捨てると言われますと、続けて「あなたがたはわたしの友である」(14節)と言われます。弟子どころか友と呼んでくださいます。この「友」は愛するという語から来ています。フィルハーモニーのフィル、フィラデルフィアのフィルです。「友」=「愛する者」。主は弟子たちのことを「わたしの愛する者」と呼んでくださいました。そればかりか15節では「もはやわたしはあなたがたを僕とは呼ばない」と言われます。僕と言いますと召使いのように聞こえますが、ここは奴隷のことです。主はもはやわたしとあなたがたは、主人と奴隷ではないと言ってくださいます。こころの通じない支配、被支配の関係ではない。わたしと同じように父なる神のおこころが分かる「わたしの友」としてあげようと言ってくださっています。友といっても、無礼講ではありません。愛する者愛される者の関係ですから、上下関係ではない。喜んで愛のこころを交わしたいのだと主は言われます。
罪の奴隷であった者を、弟子更に友(愛する者)とまで呼ばれます。それで、「あなたがたがわたしを選んだのではない」と言われます。自分が選らび、自分が決めたというのが逆転させられる所が教会です。そのために主はご自分の命を捨ててくださいました。これよりも大きな愛は誰も知りません。これほどに大きな愛はもう独り占め出来ません。出かけて行ってあなたもキリストの友と伝えて実を結びたいと思います。
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