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待降節をヨハネの手紙を読み進め、本日降誕節礼拝にこの箇所を読むことになりました。愛が集中的に語られていてクリスマスに相応しく見えます。ところが、これを書いているヨハネは愛の労苦を重ね、挫折したばかりでした。彼一人ではなくヨハネの教会の人々と共にそんな苦い経験をしました。そんな中で愛に集中して行きました。その結晶が本日の箇所です。ですから、のどかな温もりある情緖を語るのではありません。
7〜8節には(a+b : b’+a’)という型が見られます。神さまの愛(a,a’)が人の愛(b,b’ )を囲み込む形になっています。神様の愛と人の愛は密接であると申します。「愛することのない者は神を知りません。愛は神から出るものだからです」。神の愛と人の愛は切っても切れない。この「愛することのない者」は「自己愛のみの人」のことという説明あります。人を愛するといっても、自分が嬉しい、人を愛せる自分に酔うばかりで、自分が苦労を背負い込んでまで誰かを愛することはない。そういう人のことを「愛することのない人」と言っていると解説していました。自分しかない人は神を知るはずもない。それでヨハネは「愛は神から出るもので〜神は愛だからです」と申します。
神の愛から出発しなければわたしたちが互いに愛し合うことなど始まらない。 9節と10節では「ここに」が繰り返されています。「ここに神の愛が現わされました(9節直訳)」。10節の「ここに愛があります」は原文では文頭にあります。ヨハネは現実となった愛が自分たちの目の前にあると断言します。実際には恵みが与えられているとは思えないような境遇の中でこう言いました。私たちも不遇をかこつ事が訪れます。邪魔される、いじめられる。子どもの世界に限らない。いや、大人の世界を子どもたちは映しているのだと思います。理不尽も絶えません。愛する者の死を看取らなければならなくなれば、神の声が聞こえないと言い出すかもしれません。ヨハネは自分の経験から知っていました。それで、本当に神の愛は無いのかと問い続けた末に、「ここに神の愛が現わされました」、「ここにある」と申しました。わたしたちの目に見える出来事として実際に現わされたので、ここにあると言い切ります。その具体的な出来事こそ、「神は独り子を世にお遣わしになりました」です。「その方によって、わたしたちが生きるようになるためです」。私たちが生きられるように、神は御子を遣わしてくださった。ここに愛がある。
どこにも神の声が聞こえず神の手が見えないと思われても、ただ一点主イエス・キリストにおいて神の愛が現れ出ている。ヨハネは「世にお遣わしになりました」と言っています。わたしたちだけにお遣わしになったのではないと申します。神に敵対していた世にさえお遣わしになった。災難に遭った、愛する者と悲しい別れを強いられたことを、神のせいにし神を退けるような世にです。そんな世に、そんな世だからこそ、神は独り子をお遣わしくださった。ここに愛がある。神の声が聞こえない御手も見えないと言って不平を鳴らしている世とは、実は私たちのことではないでしょうか。神に不平を言い、神を敵に回す世というのは、罪の世に違いありません。しかし、何故か神さまは世を愛されました。罪の私たちにはその理由は推し量ることも叶いません。実際に神さまが愛されたとき、どうなったか?「わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました」。十字架につけるためでした。わたしたちは罪の世に暮らす罪人でした。ちょっとでも辛いことがあれば、すぐに神さまのせいにし神さまに不平を鳴らす。挙句に神を無視し斥ける。そういう事を平気でする者でした。それなのに、そのような者を何故だか分かりませんが愛してくださいました。そのために、御子の十字架が起こらざるを得ませんでした。世の罪、私たちの罪が滅ぼされるためでした。この御子の十字架、罪の裁き、罪の滅ぼしにこそ神の愛がある。他の何処にでもなく、ここにだけ愛がある。いつもある。この御子の十字架の愛にクリスマスの今日、赦されて与りたいと思います。
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