札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「「祝福を受けて行きなさい」
マタイによる福音書4章23節~5章12節
牧師 堤 隆
5月31日聖霊降臨日礼拝説教より
「教会の声」説教(2020年6月号)

 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。
 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
 心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



 主が最初になさった祝福は、「幸い、霊において貧しい者は。」(5:3直訳)です。体言止めになっていますから、きっぱりと言い切る表現です。幸せそうだとか、幸せになれるでしょうではありません。この「幸い、~の人々は。」が9つ続いています。わたしたちも誰かに祝福の言葉を掛けることがあります。「入学、卒業おめでとう」などです。ところが、主がここで祝福の言葉を掛けられる人々は決して「おめでとう」などとは声をかけられない人たちです。貧しい人のどこが幸いなのか?主が話された放蕩息子の喩えでは、裕福だった弟が放蕩に身を持ち崩しますと豚の餌さえ食べたくなったとあります。肉体の貧しさは心の貧しさを引き起こすことをご存知でした。それで、そんな貧しさの中にある人に「幸い」と声を掛けられました。身も心も貧しくするようなものが幸いな訳がありません。貧しさそのものが幸せであるはずはありません。 ここは単純に心身共に貧しい人々のもとに幸いがもたらされた。この実際を指して主は、幸いと宣言されています。
 この「幸い(マカリオス)」という言葉自体は、ギリシア語では「神々のために取って置かれた表現」と解説されていました。主が幸いと呼びかけられた時、地上にはない幸を与えてくださったことになります。理想や憧れの幸せではありません地上で懸命に暮らしても、ちっとも幸せがやって来ないと思わしめられている人たちに「幸い、おめでとう」といわれます。心からです。人々の心を逆撫でして悲しませたり怒らせたり されるはずがありません。5:1には「イエスは、この群衆を見て」祝福が始まったとあります。主ご自身がガリラヤ中を巡って教えて癒された人々です。4:25には「大勢の群衆が来てイエスに従った」とあります。ガリラヤは元々イスラエル十二部族の一員でしたが、様々な事情から「異邦人のガリラヤ」と信仰無き者と蔑まれていました。そのガリラヤからの群衆がイエスに従ったのでした。マタイは神の民イスラエルの再生が始まった事を印象付けています。ペンテコステの今日は弟子たちが教会として、新しいイスラエルとして再出発したことを記念する日です。ですから、わたしたちも主の幸いによって本日再出発することが許されています。この「群衆」に続いて「弟子たちが近くに寄ってきた」とあることが議論になりました。この「山上の説教」は群衆ではなく、弟子となった特別な者にだけ教えられたことではないかという議論です。しかし、この群衆は既に主イエスに従っていました。この直前には四人の漁師たちの弟子召命の記事があります。ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネ、四人は「イエスに従った」(4:22)。群衆が従ったと言うのと全く同じ言葉で言い表されています。主は人々を分け隔てなさらなかった。従う者全てに幸を分け与えて下さるとマタイは言います。場所は「山」です。群衆が押し寄せて来たので、押し倒されないように山に登られたという解釈は当たりません。山は主がしばしば祈られた場所です。父なる神様と心を一つにされる所でした。主は父なる神の御心と一つとなって従う者たちを神の民に再創造されました。わたしたちにとってのペンテコステと同じです。九つの幸いは9種類の幸せのことではありません。主に再生された人々の姿が多面的に描き出されています。最初の三つは「三連至福」と呼ばれます。貧しい人は悲しんでいるし飢えている。しかし、その人が祝福される。実際に「天の国はその人たちのものである」と言って至福をお与えになっています。主は天国の幸いを持ってやって来てくださいました。
 三連至福に続いて更に三つ幸いと語られます。憐れみ深い人々は、貧しく悲しみ飢える人々を憐む。心が清いから。人は美しいものなどを見ていると心が洗われると言います。それと似て、いつも神様を見ているとわたしたちの心が清くなる。その心の清さは内面に留まらず、平和を実現するようになる。祝福はどんどん広がっていきます。 良いことばかりか迫害にもなる。しかし、そんな時にも主は幸いを送り、迫害に耐える者には「天には大きな報いがある」と約束してくださいました。
 いう所から解放されています。勝利する信仰に生き始めています。この勝利に与り続けたいと思います。

 

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