主は「わたしが来たのは律法や預言者を~完成するためである」と語り出されると、具体的に「殺すな」を取り上げられます。私たちは命じられるまでもなく守っています。それなのに「しかし」と言われます。「あなた方は言われるまでもないと思っているだろうが、しかし」です。守れていないあなた方に、こう教えよう。律法学者ファリサイ派は「人を殺した者は裁きを受ける」と付加した。しかし、そんな付帯事項をつけても守られなかった。それで、「しかし、わたしは言っておく」と主は言われます。
罰を設けて違反を抑えようとしても、抑止力になっていないのがあなた方の現状である。人殺しなどという恐ろしいことはしない、恐ろしくて出来ない。まして、罰則があるのなら、なおさらしない。そう思っているあなた方の実情はそんなにのんびりと構えていられるものではない。主は、私たち以上に私たちの現状を正確に捉えておられます。「兄弟に腹を立てる者」も人を殺した者と同じように裁かれる。それはあまりにも無茶であると思われます。この「腹を立てる」の原語は、「怒る」が第一義です。私たちの周りには怒りっぽい人もいれば、怒ること遅い人もいます。しかし性格、気質に限りません。怒りは感情によるばかりではありません。「義憤」があります。例えば、戦争を推進しようとする勢力には、わたしは本当に怒りを感じます。感情的にではなく、きっとわたしは生涯変わらないと思います。むしろ、戦争に怒れる男である続けたいと思っています。、、、それでも主は「それは人殺しと同じだ」と言われるのか?平和を希求する良心的な怒りであっても、裁きを受けなければならないのか?「良心的な怒り」と言い出して、わたしははっとしました。自分が良いと思うことなら怒っても良い思い込んでいる自分に対してです。もしも、そういうことであるのなら独善も良心になります。新約聖書が書かれたギリシア語で「良心」は「共に+見る」と表記されています。神と共に見るから良心です。それが、先程のわたしの場合でもそうですが、自分の良心は甚だ怪しい。誰かに怒っているとき、神と共に見なくなっている。神様が黙っておられるからこんな不正が蔓延る、神に代わって自分は怒ると言い出す。自分はいつも正しい、間違っているのは向こうだと言って憚らない。そうし、神様に目を瞑らせている。怒りに駆られて自分一人で見ている。
新約聖書が編まれて直ぐに、この主のおことばに「理由なく」が付加されました。言い訳が挟まれました。理由があったら怒ってもいい、、、理由があったら人を殺しても良いなどと主が言われたとは思われません。「理由なく」という付加は言い訳したくなる私たちの実情をよく表しています。実際に人の命に手を下してはいない。悪口しか言っていない。それどころか、悪口を口に出してもいない。腹の中に留めている。私たちはいつも怒りの言い訳をしている。主はあなたのその言い訳は言い訳にならないと言われます。「最後の1クァドランスを返すまで」と言われている金額は30分程度の労働で得られるほどのものです。しかしその程度でも自分の罪の代価は自分では支払えない。罪の人間の有り様が示されています。
そんな者たちに主は「殺すな」を守る術を教えてくださいます。「仲直りをし」です。実際に仲直りがどれ程難しいかを私たちは身に染みて知らされています。せいぜい相手が頭を下げて来たら赦してやろうというところではないでしょうか?それでは神様との和解など出来ません。わたしも習いました熊野義孝先生は教室で「私たちには神との和解など出来ない。贖宥しかない。」とおっしゃっていました。主イエスご自身が購い宥めの犠牲となってくださる他は無かったからです。怒りに駆られたら主の十字架を思い出す他はない。
「あなたを訴える人と一緒に道を行く」とき、それは今の私たちの「時」です。悔しくて怒りに駆られる時、そこにも主の贖宥は及ぶと信じる。わたしが怒りに駆られる時、主は十字架からご覧になっている。睨んでおられるのではありません。わたしの十字架・贖宥によってあなたは罪に打ち勝つのだと見守っていてくださいます。
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