「目には目を、歯に歯を」は、いかにも残酷な刑罰ですけれども、旧約聖書の時代より遥か以前のハムラビ法典に既にあると言います。紀元前18世紀ですから、今から3800年以上前のことになります。大昔の古代人のことだから、刑罰も非人道的だったとは言いきれないと思います。今世紀になってイスラム圏でこの刑が執行された写真を見たことがあります。復讐心は際限が無いこと、また何百年何千年経っても変わらないことを見せつけられる思いがしました。そうしますと、むしろ「目には目を~」は際限のない復讐心を制限しようとしているようです。今の私たちにもひとつやられたら二つ三つやり返さないと気が済まないところがあります。数年前にテレビのサラリーマン・ドラマで「倍返し」という言葉が流行りました。やはり、今も復讐は絶えていないようです。そんな復讐が絶えない実情の中にある者に、主は克服の道を教えてくださいます。「悪人に手向かってはならない」と。
復讐を克服するために悪人に手向かわない術を、主は三つの具体例で示されます。最初は右の頬を打たれたら左の頬をも向けることです。汚いものは指で摘んで捨てます。人のことは摘めませんし手の平で触りたくないので、手の甲ではたく。右手で相手の右の頬を打つのは、汚らわしいと侮辱することです。次は、訴えて上着を取り上げようとする者には下着をも与える。当時、上着は庶民の夜具でもありました。質草として取り上げれば凍えてしまいます。略取です。三つ目は1ミリオンを強制されたら2ミリオン行く。ペルシャの駅伝に由来し、王や豪族の使者には物も労力も何でも求めるものを提供しなければなりませんでした。強制徴用です。宗教的、法的、政治的に悪人は悪を仕掛けて来て際限がない。これに対して手向かわず逃げきれと主は言われるのではありません。際限のない悪人には際限なく抵抗するようにと主は言われます。この主の教えの実践者として有名なのが、インド独立の父と呼ばれるガンジーです。「山上の説教」を読んで「非暴力の抵抗」を提唱し、国民をリードしていきました。無抵抗ではありません。
悪人に非暴力の抵抗をしても、悪人の餌食になるばかりではないのかと思われてしまいますー自分が損をするばかリー。そんな心配をする者に、主は「敵を愛し」と言われます。博愛主義ではありません。「自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われるのですから。敵を愛することなど出来っこないとあり得ないと思われるのですが、主はそんな不毛の愛を言われるのではありません。むしろ、愛敵の教えは、愛を不毛な愛に終わらせない秘訣です。不毛な愛に沈み込んでいる者を主はこう言って引き上げてくださいます。
敵を愛するのは、自分の情け深さや堪忍袋の大きさによってではありません。天の父なる神様に祈り求めなければ出来ないことです。ただ祈願するのではありません。「あなたの天の父の子となるであろう」(直訳)と言われます。これは約束です。祈って踏み出せるようにしてあげようという約束です。正確に言えば、神の子として歩み出させてあげようです。天のわたしの父の愛に生きる者にしてあげようと主は約束してくださっています。これを丁寧に示してくださるのが「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」です。神は清濁合わせ飲むお方ではありません。正しい者にだけ雨を降らせるのも難しいから、正しくない者にもおこぼれで降らせてやろうというのでもありません。そうではなく、神様は悪人・正しくない者をも愛される。今は神の子とされている私たちですが、元々悪人・正しくない者・罪人でした。そんな者を神様は愛してくださいました。「天の」神様は地上のすべての者の「父」でいてくださいます。私たちは、天の父なる神の子とされました。
不毛な愛が広がるこの地上でそこに沈み込むことなく、天の父なる神の愛を注がれて敵を愛するようにと期待されています。敵に対して「あなたも天の父なる神様に愛されている」と言って、自分の敵を愛す第一歩を踏み出したいと思います。
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