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主は単刀直入に「だから言っておく。思い煩うな、自分の命を。」(直訳)とおっしゃいます。病気や死によるよりも、衣食のことでと言われます。多くの人が明日食べることに、いや今日困っているそんな時代でした。それだけに衣食が日常的に命に直結していましたし、思い煩いも大きかったに違いありません。それなのに主は強く「思い煩うな」( Don'tではなく、Never =今直ぐ止めよ)と命じられます。厳しい口調の分だけ人の命を思い遣ってくださいます。25節の「だから」は「この故に」(原語)です。わたしの父のみを神とするなら、あなた方はもう命を思い煩わない。
自分を養うのは自分以外にない」と自分を主人とするなら、思い煩う(原語は「分裂する」) ことになる。主は思い煩うなと言って、ただクョクョするなと言われるのではありません。人は皆、体を持つ命を生きている、体を離れた命は無いことをご存じです。
「空の鳥をよく見なさい」といっても、観察や気晴らしのためではありません。空の鳥を見ようとすれば、顔を空に向けることになります。今日の衣食さえままならず、俯いてしまう者に頸を上げ、目を上に向けてごらんと言われます,私たちも衣食に限らず日常のことで俯きがちです。そんな者に主は声を掛けてくださいます。子どもも大人も何かに追われる日々を過ごしています。仕事をリタイアした方も、今日どうするかと思い悩まれることがあると思います。俯き加減の毎日かもしれません。そんな者に「見てごらん」と主は声を掛けてくださいます。「蒔かず~、刈り入れもせず~、倉に納めもしない~」を肯定形にすれば、当時の男性の仕事になります。この仕事さえしていれば安心ということはありませんでした。こんなにせっせと働いても、じっと地面を見つめて途方に暮れること幾度かという時代でした。そんな者にキは、空の鳥さえ養ってくださる天の父をごらんと言われます。
28節は女性の仕事が背景になっています。「労苦せず、紡ぎもしない」(直訳)とは逆に、女性もまた、労苦の果てにうなだれ俯かざるをえなかった。それで主は「野の花がいかに育つか学びなさい(直訳)~神はこのように装ってくださる」と声を掛けられました。ですから、「ごらん空の鳥、野の花」とはいっても鳥そのもの花そのものを見よと言われるのではありません。天の父が養い装ってくださっていることを見なさいと促しておられます。「あなたがたは、鳥よりも価値があるではないか」の「価値がある」は「異なる」(原語) です。鳥とは異なる。どこが異なるのか?。働く働かないの違いではありません。鳥は思い煩わない。ここが、鳥と人の異なるところです。「鳥や花は思い煩わない。それでも命を保っている。神さまが養っていてくださるから。それをよくごらん。そして、あなたがたも思い煩いから解かれなさいと主はおっしゃいます。そして、この神さまの養いが地上の格差を逆転する。栄華を極めたソロモンと炉に投げ込まれる野の草には雲泥の差がある。今も地上の格差は変わりません。それを神さまの養いは逆転させます。「まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」と。「それだの一、信仰の薄い者よ」。ソロモンは着飾っていても思い煩いましたし、野の花は装わせていただいても分かりません。しかし、あなたがたは神さまの養いを見せてもらっているではないか。それだのに「小さくしか信じない」。大きな養いの神さまを大きいままに信じない。
衣食だけを求めるのは、神さまを信じきれずに自分で自分を養わなければと思い込んでいるからです。そして、衣食=日常の必要を主人、神にしている。もちろん、信じたら衣食は必要ないのではありません。「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である」。私たち人間の父として、我が子の必要をご存知ないわけがない。飢えたままに、裸のままにさせておかれない。父なる神の大きな愛を大きいままに信じる。そのために「神の国と神の義を求めなさい」と主は言われます。間違いなく私たちを愛して養ってくださいと神さまに祈り求めたいと思います。
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