札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「命の門」
マタイによる福音書7章13〜23節
牧師 堤 隆
9月20日礼拝説教より
「教会の声」説教(2020年10月号)

 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
 「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」
 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



 「狭い門から入りなさい〜」は、独立した格言ではなく、この前後を含む「山上の説教」の一節ですから、前からの連続の中で読みたいと思います。直前では「求めなさい。そうすれば与えられる」と語られました。自分の欲求や要求を諦めてはならないとか、努力・探究は必ず報われるという処世訓ではありません。「人にしてもらいたいこと」という「求め」を「人にしなさい」という教えでした。人と共に生きることは、パンや魚という主食と同じくらいに必要なことで、神様に求めて初めて与えられるものだと教えられました。神様に求めて人と共に生きようとするなら、狭い門から入ることになると主は言われます。狭い門と言っても、入学試験のように人が集中すると狭くなる門ではありません。競争率何倍という狭さではない。むしろ、ここで語られる「広い門」の方が「そこから入る人は多い」。人のあつまり具合で広くなったり狭くなったりする門のことではないことは明らかです。門それ自体が狭いか広いかです。例えば、私たちがお店に入る時、広い門構えだと入り易く、お客が多いと安心して入ることができます。けれども、そのお店が本当に信用できるかどうかは、また別です。入り易いかどうかは、私たちの恣意的な勘でしかありません。人が群れているから大丈夫だろう安心できそうだという根拠のない理由です。しかし、その広い門は「滅びに通じる門」であると主は言われます。神様に求めて神様に従う門ではないからです。
 それなら、狭い門は入ってしまえば後は楽かというとそうではないと主は言われます。名門校に入るのは難しいけれども、後はエスカレーターに乗れるようにはいかない。「その道も細い」とおっしゃいます。狭い門から入ったら、その先の道も細い。この細さは窮屈程度ではありません。「押し潰されてしまっている」(直訳)です。名詞になると「圧迫」とか「苦しみ」です。狭い門から入ると苦難の道を行くことになる。しかし、それが御心を求めて行く門・道です。しかし、ただ辛く苦しいだけでなく「命に通じる」と言われます。修行のように困難苦しみに耐えて鍛えられた挙句に辿り着くのではない。狭い門を入るときも、またその先の細い道を行くときも、命がある。圧迫され苦しめられていても、命がある。滅びに向かって行かない。これを書いているマタイは自分の教会のことが重ねています。続けて「偽預言者」のことが語られています。マタイの頃の教会周辺に、しばしば現れたといいます。苦しく辛い日々を送っている教会員に「平安、平安。心配ない。」と偽りの慰めを語って関心を集めました。それはまさしく主が言われる羊の皮を被った狼のような有り様でした。主は「偽預言者を警戒しなさい」と言われた。ここは「偽預言者から」となっています。向こうから近づいてくるからです。それで「偽預言者から離れて警戒しなさい」と注意を促されます。
 実際にどのように注意するのか?丁寧に主はお教えくださっています。偽預言者・狼を「見分ける」(15節、20節で繰り返して)ことです。ここも主は十戒と同じように、未来形で命令する表現を取って「見分けるだろう」とおっしゃっています。期待を込めて命じておられます。しかも、この「見分ける」という語の原意は「知り尽くす」です。16節には「その実で彼らを知り尽くすであろう」とあります。茨からぶどう、あざみからいちじくを収穫することはあり得ないからです。御心に従っているかどうかは、質的に違ってくる。また、同じぶどうの木でも良い木と悪い木の違いが出ると言われます(18節)。「悪い実」は「質の衰えた実」(直訳)です。折角神に植えられたのに、質が衰えてしまう始末です。
 主は、悪い木悪い実について「切り倒されて火に投げ込まれる」と明言されます。実際のぶどう園で周りの木への悪影響を避けるために行われていた手入れです。そのとき言い訳が始まる。「主よ、主よ、〜行ったではありませんか」と。自分の口、自分の手が理由です。主は「父の御心を行う者だけが」と言われます。
 父の御心は、直前に語られた「人にしてもらいたいことは人にする」ことに他なりません。御心を行って命の門を入って行きたいと思います。
 

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