札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「教会という小舟に乗って」
マタイによる福音書8章23〜34節
牧師 堤 隆
11月8日礼拝説教より
「教会の声」説教(2020年11月号)

 イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。
8:26 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。
  イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」はるかかなたで多くの豚の群れがえさをあさっていた。そこで、悪霊どもはイエスに、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願った。イエスが、「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。豚飼いたちは逃げ出し、町に行って、悪霊に取りつかれた者のことなど一切を知らせた。すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。そして、イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った。 
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



 ペトロの家に到着されたのはもう「夕方」でした。ペトロの姑をはじめ大勢の病人をお癒しになると、暗くなっていましたのに舟出されました。湖であっても夜の航行は危険です。案の定、激しい嵐に襲われました。昼間の温められた上昇気流がダウン・バーストしたようです。ところが、主は翻弄される小舟の中で眠っておられました。旅上手とか無神経であられたからではありません。わたしも普通の人なら絶対に寝ないところで眠ってしまった(MRI検査中に、疲れと緊張から)経験がありますから分かります。主は、この日も夕方になっても大勢の人々を教え癒し続けられましたから、きっとヘトヘトであられたはずです。舟に乗られた途端にドッとお疲れが出てパタリと眠り込んで終われたようです。この時、「弟子たちも従った」とあります。ということは、弟子たちも主と共に小舟に乗っていました。主に従ったがために嵐に巻き込まれてしまった。ペトロたち元漁師の弟子たちは、せめて明朝にしましょうと申し上げれば良かったと悔やまれたはずです。それにしても、主はこんな中で眠っておられるのですから、恨めしくも思われた。主に従う私たちも経験することです。
 とうとう「舟は波にのまれそうになった」。元漁師たちが「おぼれそうです」と言い出す始末ですから余程のことです。すると、主は「なぜ怖がるのか。信仰が薄い者たちよ」とお叱りになりました。絶体絶命なのに、冷たく厳しすぎるのではないかと思われます。私たちも絶体絶命でなくても、人生のピンチに出遭うことはいくらでもあります。それまでの経験も知識も役に立たずお手上げになる。やはり、怖れに取り憑かれます。主は「その怖れは、小さい信仰(直訳)だからだ」と言われます。ピンチになると怖れが大きくなり、信仰が小さくなってしまう私たちのことを、主はよくご存知です。これは冷たい厳しいお叱りの言葉ではありません。ですから、「怖れることはない。信仰を小さくすることはない。」は叱咤激励ではありません。「わたしがあなたがたのピンチの舟に乗っているから」という励ましです。27節の「人々」は直訳すれば「人間たち」です。マタイ福音書はこれは十二人の弟子たちだけに語られたことではなく、すべての人間に対する励まし・慰めだと申します。「嵐」も直訳すれば「地震」です。人生のピンチに足元から揺さぶられる人間です。弟子たちはその時、主に「近寄って」います。この語はらい病人、百人隊長が主の前に「進み出た(直訳)」と同じです。ピンチの時、主の前に進み出ることが許されていること自体が恵です。それで、「主よ、助けてください」と祈り求めることができます。主は早速祈りを聞いてくださり、「風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。」
 おそらく翌朝のことと思われますが、向こう岸のガラダ人の地方に着かれます。ヘレニズム文明が浸透し商業も栄えた地方であったといいます。すると、「悪霊に取りつかれた者が二人、墓場からイエスのところにやって来」ます。高度な文明と経済成長の中で、その歪みの犠牲になった人たちです。人の住まない墓に追いやられ、人と共に生きられなくなっていました。「悪霊にとりつかれ」は狐憑きとか精神疾患を言うのではなく、神ならぬものに押さえ込まれていることです。核兵器を作って世界を支配しようとして、逆に核に支配されているのと同じです。主は嵐(=地震。人を根底から揺るがすもの)と変わらない人間の危機に踏み込んで来てくださいました。
 それなのに、二人は「神の子、かまわないでくれ~あの豚の中にやってくれ」と言いました。神と無関係になりたいと自ら言い出すのでした。けれども、その自ら望んだことは、「豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ」結末を迎えました。私たちは教会という小舟に乗っています。いつもかも順風満帆で無事に航行している訳ではありません。嵐にも遭えば、人間の歪み」も抱えます。しかし、いかなる非人間的な嵐に翻弄されようとも、教会という小舟には主が同船していてくださいます。私たちも主に励まされ慰められつつ、嵐の中を漕ぎ進んで参りたいと思います。
 

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