札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「理不尽な恵」
マタイによる福音書 1章18〜25節
牧師 堤 隆
降誕節 12月20日礼拝説教より
「教会の声」説教(2021年1月号)

 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



 「イエス・キリストの誕生の次第」の「次第」は1節の「系図(ゲネシス=成る)」と同じ語です。「イエスがキリストと成った次第」です。人の弱さ、危うさ、罪にも関わらず神様は祝福を注ぎ続けてくださったアブラハムの系図の中に御子が入り込んで、キリストと成ってくださった。「母マリアとヨセフ(18節)」は「マリアの夫ヨセフ(16節)」に繋がります。
 マリア➡︎母マリア、夫ヨセフ➡︎ヨセフという変化には、マリアの懐妊が「聖霊によって身ごもっている」ことの真相を明らかにしています。ヨセフは「母マリア」の「夫」ではあっても、主イエスの「父」ではない。不思議な処女降誕を言ったり、教会を敵視する者たちのマリアレイプ説・不倫節の揶揄に反論するするためでもありません。ヨセフは自分の子どもではないと分かっています。マリアも分かっていますが、誰の子か全く分かりません。ヨセフが裏切られたと思っても当然です。自分は全くの被害者です。マリアに怒りをぶつけても不思議はありません。ルカ福音書のマリアと違って、マタイ福音書のマリアは一切口を開きません。それが沈黙してしらばくれていると見えたら、ヨセフは怒りを爆発させたはずです。当時の結婚適齢期は12〜13歳であったといいます。ヨセフは、余りのことに狼狽し言葉を無くしている痛いけな少女を見るばかりでした。
 ヨセフは「正し人出会ったあので、〜ひそかに縁を切ろうと」しました。縁を切るには離縁状を渡して正式な手続きが要ります。無念を晴らすために法的手段に訴えようというのではありません。そうなれば姦淫の罪で石打の刑(死刑)とされます。ヨセフはもとより憂さ晴らしをするつもりはなかったようです。むしろ目の前の痛いけな少女が処刑されるのが忍びなくて、「ひそかに縁を切ろうと」したようです。ヨセフはただの「正しい人」ではなかった。一度は将来を約束した相手です。公開処刑にしたくない。だからといって、放って置けない。正し人ヨセフはギリギリの所に立たされました。ですから、「このように考えている」=「思い巡らしている(直訳)」。割り切って結論を出せずにいました。優柔不断
ではなく、ヨセフが思い巡らしていたのは、マリアとお腹の子のことでした。いかに正しい方法を取っても、当時不倫の女とその子は間違いなく路頭に迷います。ヨセフは自分の正しさを通せば母と子ふたりの命は無いので、思い巡らしていました。
 どんなに正しく誠実であろうとも人の命を生かし得ない自分に、ヨセフは居た堪れませんでした。正しい自分が人の命を左右し、殺しかねない。冷たくさっさと見切りをつけて、自分のせいではないと割り切ることもできたはずです。しかし、ヨセフはそうしませんでした。全く理不尽な立場に置かれたことをそのままに思い巡らしました。いや、苦悩した。そのさなかに「ダビデの子ヨセフ」と呼んでお告げが下ります。6節のダビデは罪人です。酷なことに、ヨセフは罪人の子と呼ばれます。妻子を生かし得ない者は罪人であると言って「主の天使」は容赦がありません。ヨセフは正しい人で、悪人ではありません。それでも罪人と呼ばれます。私たちでも愛して止まない家族のことでも、愛し通せない時があります。愛したいのに愛し通せない不条理を抱える者です。呪われているのではありません。自分の罪としか言いようがありません。そんなものにお告げが下ります。「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と。ヨセフには思ってもみないことでした。最善の策は密かな離縁しか考えつかなかったのですから。お告げは理不尽極まりないものでした。「主の天使が夢に現れて」言ったことでしたから、悪い夢を見たと無かったことにもできたはずです。しかし、ヨセフはみことばとして受け取りました。正しいけれども罪人の自分が打ち砕かれました。そして、罪人の自分にふたりの命を託すと告げられたことを受け止めました。理不尽に輪を掛けるかけるようなお告げを恵にとして受け入れました。
 「イエス(=主は救い)と名付けなさい」とのお告げはまさにイエスがキリストに成られるからです。
クリスマス礼拝の今日、このお方をお迎えしたいと思います。
 

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