札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「『笛吹けど踊らず』に抗して」
マタイによる福音書 11章2-19節
牧師 堤 隆
2月7日礼拝説教より
「教会の声」説教(2021年2月号)

 ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」 イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」
  ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。 では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』/と書いてあるのは、この人のことだ。はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。耳のある者は聞きなさい。今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



「『笛吹けど踊らず』に抗して」マタイによる福音書11章2節~19節 2021年2月7日(教会総会の日)
 主日礼拝説教 堤隆
 「笛吹けど踊らず」(17節、文語訳)は、世間では格言のように用いられます。主は「今の時代」は「笛吹けど踊らず」に例えられると言われますが、無粋で協調性のない人々だと嘆かれるのではありません。獄中の洗礼者ヨハネが弟子を遣わしたことに端を発しています。ヨハネは牢の中で「キリストのなさったこと」を聞きました。主イエスが救い主の業を行なっておられるとの噂が牢にまで届いて、「あなたが来るべきキリスト・救い主であると信じて良いのでしょうか?」とお尋ねせずには居れなくなりました。ヨハネは投獄前にすでに主にお目にかかっています(3章)。悔い改めを人々に厳しく求めて洗礼を授けている所に主がおいでになりました。主もまた「今は洗礼を受けさせてほしい」と言われて、ヨハネは罪人の罪を担われる主に洗礼を授けました。その後も、ヨハネの悔い改めを迫る切先は鋭く、時の領主ヘロでにまで及びました。ヘロデが実の兄の妻と不倫を働き横取りしたことを厳しく追及し、悔い改めを迫ったことにより、ヨハネは返り討ちのような格好で牢に入れられてしまいます。その牢の中でヨハネは主イエスが「火の審判者」ではなく「キリストの業」をしておられると聞いて、自分はズレていたのかと心配になったようです。
 ヨハネの心配を察して、主はヨハネの弟子たちに自分たちが見聞きしていることを伝えなさいと言われました。ニュースのレポーターのようにではありません。キリストの業を自分で見て、それが救いであると確信して伝える。そこで、キリストの業の証人となるように、あなたがたが見聞きしているのはこのことだと主はおっしゃいます(5節)。実際に主が行なっておられる様々な奇跡の癒しです。しかし、「わたしはこんなに数多く奇跡を行なったのだからキリストだ」と言われるのではありません。ヨハネにしましても、主が奇跡を引き起こせるかどうかをお尋ねするのではありませんでした。火の審判者が裁きをしないで救い主の業を行なっておられるのかどうかを知りたかった。「自分は主はズレてしまったのか?」という問いです。ヨハネにとって根本問題でした。主はこの問いに、ご自身がなさったキリストの業の証言で答えておやりになります。ただ奇跡を行う力を持っているというのではなく、5節の最後でキリストの業をまとめて「貧しい人は福音を告げ知らされている」とおっしゃる。するとすぐに「わたしにつまずかない人は幸いである」とも言われました。山上の説教の語り出しが思い出されます。主はただ病気や障がいが癒やされる人は幸いだと言われるのではありません。誰にも襲い来る困難・辛さがあります。心は圧迫され擦り減り貧しくなってしまいます。そんな人々に主は幸いを贈られます。そのような中でも福音が聴ける幸いです。様々に病気・障がいを負っている、困難つらさを抱えている。それを悔やむばかりに過ごさなくてもいい。こんな目に遭うのは自分に何か落ち度があったからかと無用な反省をしなくても良い。心が貧しくなるなら、福音を聴いたらいい。心が貧しくなって、神を恨めしく思い、自分の罪を晒すのではなく、キリストの業である福音を聴く。そのとき初めて神のことさえ恨む罪を悔い改めることができる。
 「わたしにつまずかない人は幸いである」などと言われますと、何か主が躓きの石でもあるかのように聞こえてしまいます。ヨハネは躓きそうになっています。神に従ったばっかりに投獄されている。この牢に福音は届くのかと。主はヨハネでも弱音を吐く弱さを抱えていると非難されるのではありません。「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」とさえ言っておられます。キリストの先駆者とされたからです(10節)。「しかし、天国で最も小さな者(「ミクロの者」直訳)
でも、彼よりは偉大である」。神の国で福音を聴くことの偉大さです。ヨハネはここが揺らいでしまいました。「つまずく」はマタイ福音書では3度しか出てきません。ここと、後はペトロのつまづきのところで2回です。ペトロは自分の決意の大きさで自分を測ってつまづきました。どんなに自分が大きな者とされて大切にされているかに気づかなかったからです。
 笛吹けど踊らずの世に抗して、福音を聴かされている者たちとして遣わされてまいりたいと思います。
 

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