札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「人、丸ごとの救い」
マタイによる福音書12章1〜21節
牧師 堤 隆
2月21日礼拝説教より
「教会の声」説教(2021年3月号)

  そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。
12:4 神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。」
 イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。
 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける。」 

 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



 「ある安息日にイエスは麦畑を通られた」と始まっています。わたしが伝道師から牧師になったのは四国の高松においてでした。讃岐うどんで有名なところで、仮住まいから土地建物を得て移転した伝道所は麦畑の中にありました。冬の麦踏み、初春の緑、初夏の黄金色の穂を眺める幸いを堪能しました。主の一行が麦畑を行かれたというだけで、郷愁のようなものを感じます。農家の方々はおおらかで子供が刈り入れ後の畑で遊ぶのを微笑んで見ておられました。申命記は麦畑で「手で摘んでも良いが、鎌を入れて収穫してはならない」と定めていますが、なんとも人に優しい掟です。ところが、弟子たちが麦の穂を摘んで食べ始めると、ファリサイ派の人々が見咎めました。盗みをしたとは言いませんでしが、安息日規定(労働をしない)に違反したと言いました。
 そんなファリサイ派に、主は聖書に「読んだことがないのか?」、「律法にあるのを読んだことがないのか?」と重ねて問い返されました。ファリサイ派は律法学者を多く輩出する専門家集団でした。それが論語読みの論語知らずよろしく、聖書読みの聖書知らずに陥っていました。マタイ福音書ではクリスマス物語に登場した時から既にその姿を露呈しています。ユダヤ人の王の誕生を伝え聞いたヘロデ王が律法学者たちに尋ねますと、彼らはたちどころに預言された聖書の箇所をあげることができました。しかし、主イエスを拝するどころかヘロデに加担しました。そんな正体を麦畑でも晒したわけです。主はダビデ王が神殿のパンを食べたこと、祭司が安息日に働くことを引いて、「人の子は安息日の主なのである」ことを
示されました。安息日は人間が主人公だと言われるのではありません。神の安息に与って、命を繋ぐ日が安息日です。それで「安息日の主」は『わたしの求めるのは憐れみであって、いけにえではない』、この神さまの憐れみは神殿よりも大きいと言われます。人の子・イエス・わたしこそ、父なる神の憐れみを携えてきた安息日の主であると宣言されました。
 主が安息日の主として会堂にお入りになりますと、麦畑でやり込められたファリサイ派がついて来ていて「イエスを訴える」チャンスを窺っていました。すると、上手い具合にその会堂には片手の萎えた人がいました。片手ですから生命に関わる緊急性はありません。それでも、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と持ちかけました。掟より人間優先なら、この人は衆人環視の中で掟破りをするだろうと踏んでのことです。主は羊を一匹持っている人に譬えて答えられました。百匹持っていたら立派な牧羊家です。しかし、ただ一匹を飼う者です。毛を刈り、乳を絞っても一家を食べさせるのがやっとです。それでもこの一匹は家族全員のを養うためのものであり全財産でした。頼みの綱と言えます。羊に安息日だからウロウロするなと言っても聞き分けるはずはありません。羊は極端な近眼で、草を求めてさ迷って、しばしば穴に落ちたといいます。安息日であっても、穴に落ちた羊を放って置けません。羊が死ねば、一家はたちまち食べて行かれなくなります。一匹の羊は掛け替えのない者を譬えています。神様にとっての「わたし」です。一匹の羊を飼う者の心は、神さまの「憐れみ」を譬えています。しかも、架空の話ではありません。主は片手の萎えた人に「手をの伸ばしなさい」と言われました。するとこの人は「健康を元の状態にした(直訳)」。癒しは英語でヒールですが、ホールから来ているそうです。そしてホールはギリシア語のホロス(全体)の派生語です。この人は片手だけでなく全身の健康を取り戻した。全人的に癒されました。丸ごとの人間回復です。
 人、丸ごとの救いが目の前で行われても、ファリサイ派の人々にはどうしても理解しませんでした。目論見が失敗して「どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」のでした。この一句は主をピラトに渡す時にもう一度出てきます。こんなにも早い時期から主の御受難は始まっていました。それでも、主は「彼に従った〜彼らをいやして(直訳、『病気』は無い)」おやりになりました。丸ごといやされた。
 「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」ために、人の苦難を引き受けてそうしてくださいました。
 

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