札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「弛まぬ信仰」
マタイによる福音書13章24〜43節
牧師 堤 隆
4月18日主日礼拝説教より
「教会の声」説教(2021年5月号)

  イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
  イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
  イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「わたしは口を開いてたとえを用い、/天地創造の時から隠されていたことを告げる。」
  それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



 本日の譬えにも説明が加えられています。譬えは話を分かり易くするものですから、それにもう一度説明を加えることはまずありません。主の譬えは単にやさしく語るものではなさそうです。「イエスは〜たとえを用いないでは何も語られなかった」(34節)のはなぜなのか?預言を実現するためだと主は言われます。「わたしの口を譬えでもって開く。世の初めから隠されていたことを吐き出す」(35節直訳)生々しい嘔吐の様子が窺えます。それで譬え以外では語れない。主は何を吐き出そうとされているのか?13章の第2、3、4の譬えでは種を蒔く土壌の話から、種自体の話に移っています。道端、石地、茨という土壌のための失敗が示されると、種自体が悪いことだってあるのではないかと呟きが漏れる。そこで、言い訳がましい反論を見越して「別のたとえを持ち出して言われた」(24節)。
 主は人々の疑念を吐き出されます。良い種を良い地に蒔いたのに問題が生じたのだと。わたしが天国をもたらすと、妨害が起きたと言って毒麦の譬えを話されました。「人々が眠っている間に、敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った」。就寝中のことですから不可抗力です。毒麦は発芽から結実まで良い麦と一緒で、養分を横取りし場所も塞ぎました。それだけに執拗です。天国といえども極楽極楽と言っておれない。著者マタイにはこの譬えが自分の教会が置かれていることに重なりました。天国を先取りしている教会にも躓きや妨害が起こると。ローマ帝国による迫害、教会に残る律法墨守とまさに内憂外患でした。そんな中で起こる危険の真相を主は譬えで説き明かされます。譬えの「僕たち」は「行って抜き集めておきましょうか」と提案します。これを「人間はしばしば神以上に宗教的になる」と解説する人がいました。神に代わって悪を成敗するという正義漢の問題性です。これはファリサイ派の人々の陥った所です。神に成り代わって律法で人を裁く。その結果、「空き家になっており、掃除をして、整えられていた」。空虚で神不在の宗教を作り出していました。
 敵の仕業ならやっつけておきましょうかと言う僕たちに、主人は「いや、決してするな」(29節直訳)と答えます。人が神に成り代わることを厳しく禁じます。もう一つ、毒麦を抜けば良い麦まで一緒に抜いてしまうとも言います。麦と毒麦は地中で根が絡み合っていますから、毒麦を抜けば良い麦まで根こそぎにしてしまいます。弟子たちが主イエスよりも宗教的になると、神の麦まで傷つけてしまう。「主人」は麦、僕、弟子、教会を大切に守り抜くと言います。けれども、清濁合わせ呑むのではありません。「刈り入れの時」にきちんと選別する。ところが、弟子たちは刈り入れ前に毒麦がよい麦を凌駕するのではないかと心配したようです。それで、主は再び「別のたとえを持ち出して、彼らに言われた」。天国の収穫は確実で毒麦に凌駕されることはないと示されます。種に生命力を与えているのは神様であるという譬えです。からし種は「どんな種よりも小さい(直訳は「ミクロ」)」が成長して鳥をやどす程になる。パン種はもう目に見えません。しかし、確かに働いて全体を膨らませます。小さな種に神が働いて絶大な力を発揮されるという譬えです。だから、心配無用。
 これに続けて、第2の譬えに説明が加えられます。毒麦の譬がからし種・パン種の譬えを挟み込む形をなります。この構造からも、天国の良い種は地上の毒麦の妨害に囲まれようとも、凌駕されることはないと読み取ることができます。刈り入れは「天使たち」によってなされます。弟子たちが敵の人間を裁くのではありません。人が人を裁いて神より宗教的になることの無いように、主は「人の子は天使たちを遣わす」と言われます。
 さて、それでも心配は尽きません。自分は毒麦ではなかろうかと。しかし、主は毒麦と麦の譬えを運命的なものとして語っておられません。「耳のある者は聞きなさい」(43節)と言われたことは一貫しています。天国の福音を聞く耳を持ちなさいと言って、私たちの決断を求めておられます。意思を尊重してくださいます。みことばに躓いたり妨害されたりした時にこそ、みことばに聞くようにと励ましてくださっています。
 

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