札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「強く心を刺され」
使徒言行録2章1〜4節、36〜42節
牧師 堤 隆
5月23日 聖霊降臨日礼拝説教説教より
「教会の声」説教(2021年6月号)

1  五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
【新共同訳】
36 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



 わたしは日曜学校の時分に聖霊降臨日を教会の誕生日と教えられました。学校や会社にも創立記念日があります。少々だらけれ来た今を糾そうと、熱気が溢れていた創業時の志を回想したりします。しかし、聖霊降臨日は、昔を回顧して身を糾す日とは異なります。確かに、この目で直に主イエスを見られたら、自分の耳でお声が聞けたら、どんなにか信仰が鮮やかになるだろうかと思われ、最初の弟子たちが羨ましくなります。もしも、そうなら弟子たちは自力で活発に自分たちで教会を始められたはずです。しかし、聖霊が注がれなければ教会は始まりませんでした。弟子の努力や熱心によって教会が誕生したのではありませんでした。初代教会の人々が今の私たち以上に恵まれていたので教会が生まれたのでもない。聖霊による教会の誕生は神業でした。
 十字架処刑者の残党として掃とうされる身に、弟子たちは不安と恐怖を感じていたはずです。しかし、聖霊は、びびっと乗り移って奮い立たせる精霊とは異なりました。聖書はこの時の様子を「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、〜炎のような舌が分かれ分かれに現れ」(2〜3節)と報じます。「ような〜ような」といいますから、実際に風が吹いた、舌が現れたのではありません。聖霊が風の音や舌に例えられています。この比喩が伝えるのは、聖霊の注ぎは異常現象とか、我々人間の想像の産物ではないということです。聖霊は見たり触ったりできませんけれども、確かに「一同が一つになって集まっている」ところに外から働きかけました。次に聖霊は働きかけた人を動かしました。衝撃を与えて感情を煽るのではありません。官憲の追及を恐れて家の中に閉じこもっていた弟子たちは、聖霊を受けると公然と語り出しました。それは、五旬祭のために世界中から集まっていた人々を驚かせました。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(11節)と。語る内容が「神の偉大な業」と通じていますから、わめいたりたり呪文を唱えたのではなかったと分かります。しかもこの人々は「この人たちは皆ガリラヤの人々ではないか」(7節)と驚いています。ガリラヤは辺境にあり国際交流などできるはずはない。文化も劣ると蔑まれていました。そんなガリラヤの人々が様々な外国語を話し出したことがどうにも腑に落ちませんでした。それで、とうとう「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っている」ことにしました。この人々は聖霊の働きを解しませんでした。
 そこで、「ペトロは十一人と共に立って〜話し始め」(14節)ました。教会は説教を開始しました。聖霊が始めさせました。ペトロの説教の中心は「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシア(キリスト)となさったのです」(36節)にあります。聖霊を受けて初めて、ナザレ人イエスを「キリスト」と呼ぶようになると申します。救いが現実となり身につくようになる。この説教を聞きますと、人々は「大いに心を打たれ」(37節)ました。ここは口語訳聖書では「強く心を刺され」となっていました。聖霊の働きを解すことなく、新酒に酔っているぐらいにしか思わなかった人々の心に説教が刺さりました。疑い嘲笑という心の壁を突き破り、「神の偉大な業」が心に届きました。強く心を刺す聖霊は人々を根底から揺り動かしました。「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と問わずにおれなくさせました。今のままで良いはずはないと思わしめられているのですから、悔い改めが始まっています。これも聖霊の働きでした。わたしたちは日常会話で「信仰をする」とか「信仰を持つ」と言ったりします。わたしが信じるのですからそう言えるかもしれませんが、聖霊によってという面が見失なわれてはならないと思います。聖霊によって信じるのですから、信仰はあくまでも賜物です。ですから、信仰は持つのではなく、身につけます。
 神様は聖霊を自由に注がれますが、決して気ままにではありません。ペトロはそこのところを「イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました」(33節)と申します。約束の聖霊ですから、確かです。この確かな信仰に歩ませていただきたいと思います。       
 

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