札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「主イエスの養い」
マタイによる福音書15章29~39節
牧師 堤 隆
7月11日 主日礼拝説教説教より
「教会の声」説教(2021年7月号)

 イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。
  イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」 弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」イエスが「パンは幾つあるか」と言われると、弟子たちは、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えた。そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が四千人であった。イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方に行かれた。
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



 主が何千人もの人々を養われるのは、これで2度目です。注解書は二重記事であるとして、解説を省略したり、「前掲の五千人給食解説を参照のこと」と言って済ませたりしています。聖書自身も、マタイ福音書と同様にマルコ福音書を手本にしたルカ福音書は四千人の方を省略してしまっています。実際は1回しか無かったことを2度語ることもないと考えたようです。それなら、マタイは何も考えずに丸写しにしたのか?16:10には弟子たちが二つの養いをまだ悟っていなかったと報じています。この辺りに主が二度に渡って奇跡を起こされた訳がありそうです。例えば、習い事は倣う事だと言います。真似る。何度でも繰り返して身につけます。それと同じで、弟子たちが中々悟らないので主は奇跡を繰り返して、習わせようとなさった。ですから、ここに記されていることを私たちもこの身で習って是非とも身につけたいと思います。<BR> 29節からしますと、主の一行は異邦人の地からガリラヤに戻っておられます。この時の「大勢の群衆」が異邦の地からついて来たと考えられます。異邦人の地で主はカナンの女と出会い、その大きな信仰を賞賛されました。これを見ていた異邦人の群衆が、この女に倣い主を大きく信じてついてきたものと思われます。彼らは「多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえた」。これは「投げ出した」(直訳)と象徴的です。抱え切れない困窮を携えてきて主の元に明け渡した。私たちも今日もそのようにしてこの礼拝に集っているのだと思います。私たちの実情が象徴されています。「足の不自由な人、目の見えない人、、、」は預言者イザヤの預言に重なります。主は旧約預言を成就されました。すると、ついて来て一部始終を見ていた異邦人の群衆は「見て、驚き、イスラエルの神を賛美した」といいます。自分たちにとっては外国人の神様である「イスラエルの神」の業を見て驚き賛美しました。人種で区別されず、自分たちの困窮が受け止め癒されたからです。<BR> ご自分に対する大きな信仰に応えて人々を癒やされますと、主はおっしゃいました。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れ切ってしまうかもしれない」と。異邦人の地からついて来て三日も経てば、とうの昔に持参した弁当も食べ尽くしていたはずです。群衆は「男が四千人であった」といいますから、女性や子どももいたでしょうから、それ以上の大群衆に膨れ上がっていたはずです。三日もすれば、食料が底をついて当り前です。主は「厄介なことになった」とはおっしゃらず、「かわいそうだ」と言われました。これはわたし流に訳せば「断腸の思いだ」となります。言語に「腸」という語が入っています。ユダヤ人は感情や思いを臓器にそれぞれ割り振って言い表しました。私たちでも「胸が痛む」と言ったりします。別に心臓が痛い訳ではありません。それほどの悲痛を表します。今回改めて調べましたところ、この「かわいそうだ」は「腸」だけでなく臓器全部を表す語でした。「思いのすべて」が込められていることになります。そこはかとなくかわいそうだと言れたのではなく、深く深く憐れまれました。「人里離れたところ」は「荒野」(直訳)です。この地方では、一人で荒野に行くことは自殺行為だといいます。「途中で疲れきってしまうかもしれない」は「死んでしまうかもしれない」と同じです。だからこそ、主は全身全霊をあげて憐れまれました。こんなにもご自分のことを大きく信じている者たちを死なせられないと、養いを決意しておられます。<BR> 主は1回目と違ってご自分が先に口を開き「パンは幾つあるか」と尋ねられます。弟子たちは「七つあります」と答えました。明らかに、主は習わせようとなさっています。1回目の時は五つのパンでした。今回はそれ以上にある。それなら、前回にも増して豊かに養っていただけるだろうと考えて良さそうなものです。ところが、弟子たちは悟りません(16:9)。それでも主はお叱りになることはありませんでした。「感謝して~裂き~与え~」(直訳)られました。これは、教会の聖晩餐の用語です。マタイは主の養いは今に続いていると申します。    

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