札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「命の代価」
マタイによる福音書16章21~28節
牧師 堤 隆
8月8日 主日礼拝説教説教より
「教会の声」説教(2021年8月号)

 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



 いわゆる受難予告は16章に始まってマタイ福音書に3回あります。主は苦しい胸の内をポロリと漏らされたのではなく、どうしても伝えておこうとされました。「このときから」は単なる時間経過を言うのではありません。ガリラヤの春と呼び習わされる主の伝道が、ペトロのキリスト告白を生み出した「このときから」=ちょうどそのときから、受難予告が始められました。ですから、「打ち明け始められた」と申します。この原語は「目に見せる」、「証拠を示す」という意味を持ちますから決意表明以上です。「することになっている」は、神的deiと呼ばれる表現になっています。運命ではなく神様の必然を表す言い方です。ですから「苦しみを受け手殺され~」は敗北宣言ではなく、「復活することになっている」勝利宣言です。
 ところが、ペトロはこれを敗北宣言に聞いて、「イエスをわきへお連れして、いさめ始めた」。「彼を引き寄せて、非難し始めた」が直訳です。主より年上であったペトロが「とんでもない」と注意した程度ではありません。ペトロのしたことは象徴的です。わたしは「あなたはメシア」と告白したのに「殺される」と言われては、わたしの告白は無になるというので、主を自分に引きつけるために非難しました。すると主は即座に「サタン、引き下がれ」と厳しくお命じになりました。この厳命が発せられるはこれで二度目です。最初は荒れ野で主を試みた悪魔に対してでした。「退け、サタン。あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(4:10)と。ペトロはこの悪魔と同じで「わたしの邪魔をする者」と化していました。ペトロのどこがそこまで堕落しているのか?それは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」という彼自身の言葉に窺えます。殺されることなどあってはならないと申します。これを「人の良い誠実さ」と解釈する向きもいます。先生の身を案じてお諌めしたと言うのですが、とてもそんな代物ではありません。「あってはなりません」は神的deiの「なっている」を真っ向否定しています。神様のご意向を否定するので主は「わたしの邪魔をする者」、「サタン」と言って厳しく退けられ<BR> しかし、主はペトロのサタン性を追放されますが、全否定して放逐することはなさいませんでした。「サタン、退け」は原文では「サタン、わたしの後ろに、退け」と三語です。どこかに言ってしまえとおっしゃるのではありません。逸脱しているので、元の所に戻れと言われます。「わたしの後ろに」はペトロがガリラヤ湖で弟子に召されたときに掛けられたお言葉です。「わたしについて来なさい」(4:19)も「わたしの後ろについて来なさい」(直訳)です。主はペトロを元の居場所に連れ戻されました。それはペトロ一人のことではありません。16:24の「わたしについて来たい者」は「わたしの後ろにき来たいなら」(直訳)です。誰であっても「わたしの後ろ」が本来の居場所である。しかし、だからと言って決して安全地帯ではない。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と続けて言われます。讃美歌331に「主にのみ十字架を負わせ祀り、われ知らず顔にあるべきかな」と歌われています。知らず顔でないなら、サタン性、利己的な自己主張、御心を蔑ろにすることを捨てなければなりません。
 主の後ろからついて行って「わたしのために命を失う者は、それを得る」と約束してくださいます。自己放棄で何もかも失うのではなく、「全世界を手に入れても」それに値しないほどの「命」を得られる。「自分の命を買い戻すのに、どんな代価が支払えようか」とは、命の代価は全世界と比べようもないということです。命の代価はない。いや、一つだけあります。十字架に殺され復活なさる主のお命だけが、私たちの命の代価です。主はサタンに命を売り渡してしまっている者をご自分の命という代価を払って買い戻すと受難予告をなさいます。それで主の後ろからついて行くことに「報いる」と言われます。主から外れたり、貧乏くじを引くのではなく「決して死なない」命という報いが約束されています。
 

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