札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「神の子の自由」
マタイによる福音書17章22~27節
牧師 堤 隆
9月5日 主日礼拝説教説教より
「教会の声」説教(2021年9月号)

 一行がガリラヤに集まったとき、イエスは言われた。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。」弟子たちは非常に悲しんだ。
◆神殿税を納める一行がカファルナウムに来たとき、神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言った。ペトロは、「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスの方から言いだされた。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、イエスは言われた。「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」 
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



 22-23節は第二回目の主による受難予告です。全部で3回ある受難予告の中では一番短いものです。そのために、これは予告が3回あったと言うための数合わせのための原稿の埋め草のようなものと解されたりします。注解書の中には「第一回予告を参照」として解説しないものもあります。聖書本文も、わずかに「一行がガリラヤに集まったとき」という短い一句のみです。この「集まった」は軍隊用語で「結集する」です。大部隊を集めて一大作戦に打って出る時にもっぱら使われます。主を入れて13人の一行なのに何千何万人も集結させるように語るのは大袈裟に思われますが、数よりも一大作戦に当たる事を言いたいようです。一行は一大事のために集結した。その場所はガリラヤ。ここにも重大な意義があります。主が公生涯を始められたのがガリラヤでしたし、ペトロたち最初の4人の弟子が召されたのもガリラヤでした。主が弟子団を結集して伝道を始められたガリラヤです。一行のうち3人は山上で主の真のお姿を見せていただきましたが悟りませんでした。また、麓に残こされた弟子たちも主から託された癒しに失敗しました。12人はまさに破れ果てた者たちとして再会しました。それだからこそ、主は12人をガリラヤに集結させられたものと思われます。最初の弟子団へと再結集して、再出発させようとなさいました。
 事態は緊迫していました。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている」にそれが現れています。「~ようとしている」は「今まさに~しようとしている」という語です。弟子団が再結集されて進むべき行先が迫っていました。主の御受難です。「人々の手に引き渡される」は受動態ですから、隠れた主語は「神」です。「神によって引き渡される」。「殺される」は能動態で直訳すれば「彼らは(人々は)殺すだろう」になります。そして「復活する」は原文では受動態で「(神によって)甦らされる」です。人々が主を十字架に架けて「殺す」ことが、神によって「引き渡される」、「甦らされる」に囲み込まれています。これは文章構造だけのことではありません。この構造をもってマタイ福音書は、主の御受難は神の御心によってなされると申します。主が受難予告をされると、「弟子たちは非常に悲しんだ」といいます。主の十字架への御決意が固くて引き止められそうもなくではありません。自分たちが真の主を悟らず、御委託に応えられないために、いわば自分たちのせいで主を十字架に向かわせていることに非常に悲しみました。<BR> 再出発した「一行はカファルナウムに来」ました(24節)。ここには主の定宿ペトロの家がありました。ペトロは実家の前で徴税人に問い詰められます。あなたたちの先生は神殿税を納めないのかと。出エジプト記30章にある「命の代償」という20歳以上の男子に課せられた神殿への献金のことです。貧富の差に拘らず、一律に銀1シケルと定められていました。神の民イスラエルの正式メンバーであることの証でした。それを主が収めていないと咎められました。ペトロは自分たちの先生が正式メンバーではないと言われては心外だと思われたのか、即座に「収めます」と答えました。家に入ると、それを聞いておられた主がペトロにお尋ねなりました。地上の王は税や貢ぎ物を自分の子供たちから取り立てるだろうかと。ペトロはそんなことはしないとすぐに答えることができました。こうして、父なる神への神殿税を神の子は納めはしないとご自分のことを暗示されました。
「では、子供たちは納めなくてもよいわけだ」の「子供たち」の複数形で主は弟子たちもと言われます。わたし同様あなたたちも神の子だから自由だと言われます。免税の話ではなく、神との自由な交わりのことを語られます。その上で「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう」と言って、生涯最後となる奇跡をもって銀貨をペトロに与えられました。<BR> 釣った魚を市場で売って銀貨に替えてではなく、神様から頂いた銀貨で納めさせられました。神によって神の子とされて、僕や奴隷ではなく一人前の人間として神の前に立てるようにしてくださいました。
 

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