札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「創造主は初めから」
マタイによる福音書19章1~12節
牧師 堤 隆
10月3日 主日礼拝説教説教より
「教会の声」説教(2021年10月号)

 イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。大勢の群衆が従った。イエスはそこで人々の病気をいやされた。ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」 弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



 主はガリラヤを去りユダヤ地方に行かれた。「ガリラヤの春」から「受難のエルサレム」への旅が始まります。メシア運動に失敗して処刑される下降線を辿るのではなく、メシア(救い主)になるために旅立たれます。「これらの言葉を語り終えられると」は、弟子たる者のあり方を語り尽くされたのでということです。神の無限の愛と赦しを受けて兄弟を赦せるようにするためのエルサレムへの旅です。この時、「大勢の群衆が従った。イエスはそこで人々の病気をいやされた」。同じことが旅の終わりにも報じられます。「エリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った」(20:29)。これに二人の盲人のいやしが続きます。旅の間中、始終いたるところで起こったことだと言います。主に従いいやされることが受難のエルサレムに注ぎ込んで行きました。
 そこにファリサイ派の人々が現れます。これまでの登場ぶりからすると、いつでも水を差す者たちです。天からの印を見せたら神の子と認めようと試しましたし、安息日には病人をいやして掟破りをするかどうかと試しました。その企みに失敗すると、ファリサイ派は「どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」(12:14)のでした。そうしますと、19:3の「近寄り、イエスを試そうとして」も、ただ水を差すだけでなく、命をつけ狙って近づいて来たことになります。主の御受難はエルサレムへの旅の出立当初から既に始まっていました。お命をつけ狙った試みは離婚問題によって投げかけられました。実際に誰かが離婚問題で困っていたからではありません。どこまでも陥れるためです。「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは律法に適っているでしょうか」とは申命記24章の「離縁状を書いて、それを手渡し、家を去らせる」を指しています。正式離婚の手続きというだけでなく、再婚を可能にしますから弱い立場の女性を保護しようという律法です。日本の「三行半」とは大違いです。こちらは理由も何もなく夫が離婚したければ勝手に三行半で離縁すると書きさえすれば良い。男の身勝手を許すものです。ユダヤでも元々女性保護の精神に立っていたこの律法が、次第に「三行半」化されて行きました。妻が姦淫の罪を犯したという厳格な理由に始まり、妻よりも美しい女性を好ましく思ったからという理由にならないものに至るまで両極化し派閥まで出来ていました。「何か理由があれば」と問うたのは、どう答えても派閥争いに巻き込んで陥れられるからでした。
 ファリサイ派が申命記律法を持ち出すので、主は遡って創世記からお答えになります。「人が妻をめとり、夫となってから」の大前提は「はじめから男と女とにお造りになった」だからです。男と女であって、雄雌ではない。男と女とで人格的交わりをするように造られた。男の身勝手は人格無視であり、何より御心から外れ、人間としての男からも外れます。ギリシャ神話にアンドロギュノスがあります。両性具有と訳されますが、人間は元々「男女」=アンドロギュノスだったのが男と女に引き裂かれたので両性は互いに片割れを求め合うという神話です。しかし、聖書の神は片割れという不完全な人間を造られたのではありません。男も女も一人前の人間としてお造りになりました。そして、「神が結びあわせて下さった」。この当時の結婚は親が決めた許嫁によリました。親の意思が優先されました。現代の憲法では両性の合意に基づくとします。いずれも人間の意思が基本です。しかし、主は結婚を許すのは神の意思であると言われます。だから、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。しかし、ファリサイ派が「なぜモーセは、離縁状を渡して離婚するよう命じたのですか」と食い下るので、主は「あなたたちの心が頑固なので~許した」と答えられました。 
 ところが、弟子たちまでもが「妻を迎えない方がましです」と言い出す始末でした。この「ましです」は「益がない」(原意)です。弟子たちは結婚を損得で捉えていました。主は御心が結婚を自由なものとするし、結婚からも自由にすると言われます。創造の初めから注ぎ続けられている無限の愛と赦しを今受けて自由にされたと思います。

 

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