札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
謙遜のり所
マタイによる福音書23章1-12節
牧師 堤 隆
2月6日 主日礼拝説教説教より
「教会の声」説教(2022年2月号)

 それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



  「それから、イエスは群衆と弟子たちにお話になった」のは、「その日からは、もやはあえて質問する者はなかった」(22:40)からです。宮潔以来、神殿当局者やファリサイ派らが、入れ替わり現れて主を陥れ捕らえようとし、ことごとく失敗しました。彼らは自ら言葉が通じないことを晒しました。彼らは危険に陥りました。言葉を無くし、暴言・暴力に頼る危険です。そんな危険な者たちが立ち去りますと、主は弟子たちに「お話になって、言われた」(直訳)。=語りに語られた。どうしても、言い聞かせたかったからです。聞いてくれる者がいなくなったからではありません。弟子たちもファリサイ派らと同じ問題を抱えていたからでした。
 ところがいざ語り始められると、言葉を無くして立ち去った律法学者やファリサイ派の言うことを守るようにと言われます。偽善者の真似をせよと言われるはずはありません。はっきりと「だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい」(3節)とおっしゃいます。彼らが「モーセの座に着いている」から、「だから」です。モーセの座は「モーセの教授椅子」とも言われます。いわゆる教授のポストではなく、モーセが神様から授かった教えを告げる座です。ところが、その椅子に着いていた者たちは現行不一致でした。口先だけで何もしなかったのではありません。「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に乗せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」(4節)のでした。ファリサイ派派は行動派で鳴らしていました。律法を厳格に行なっていました。リゴリスト(厳格主義者)にありがちなことは本末転倒です。ファリサイ派らは神の教えを行なっていませんでした。背負いきれない重荷を人の肩に乗せて、それが御心を行うことになると思っていました。そのように律法が重荷になることに価値があると思い込んでいました。なぜなら、自分が頑張って重荷を負うことに価値があったからです。自分の頑張りで律法を守る。その努力で自分を立たせていました。しかし、それではモーセの教授椅子は宴会の上座と同じです(6節)。自分を誇り、自分を喜ばせているだけです。重荷を負うことを、主はすでに11:28以下でお語りになっています。「重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう〜わたしの軛は負いやすく」と。「わたしの軛は負いやすい」のですから、これは二頭立ての軛です。片方に自分が繋がれていると、主がもう一方に繋がれてくださる。主は、あなたの重荷を共に負ってあげようと言ってくださいます。ファリサイ派とは大違いです。あなたが、重荷に押しつぶされてしまわないようにわたしも一緒に負ってあげるから、安んじて行きなさいと励ましてくださいました。これこそが、モーセの座からの教えです。
 それで「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない〜師は一人だけで、あとは皆兄弟」だからです(8節)。この「師」は「ラビ=大きい」という語です。だれにも虚栄心があります。自分は大きく見られたいと言う自己主張を抱えて謙虚になれません。そこで主は謙虚になれる道を教えてくださいます。わたし一人が師であるときあなたがたは皆兄弟になれると主は言われます。兄弟と言っても、兄弟子や弟弟子があるのではありません。そうではなく、神の子・主イエスだけが長兄で、あとは皆、弟妹です。この関係が謙遜の拠り所です。「また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父お一人だけだ」(9節)とも言われます。主イエスの弟妹にされるなら、天の父も私たちの父になってくださることになります。主によって謙遜にされる光栄が語られています。
 そこで、実際に謙遜になるために「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える人になりなさい」(11節)と言われます。この「偉い」も「大きい/メガ(100万倍)」です。100万倍になりたかったら、仕える者になりなさい。主は「人の子が、仕えられるためではなく、仕えるために来た」とご自分のことを語られました。主の謙遜に倣って、神の前に謙遜にされて教会総会に臨みたいと思います。
 

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