札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
御翼の陰に
マタイによる福音書23章25-39節
牧師 堤 隆
2月20日 主日礼拝説教説教より
「教会の声」説教(2022年3月号)

 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。
23:33 蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」
 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



 主の「あなたたち偽善者は不幸だ」と言われる説教が続いています。これは「心の貧しい人は、幸いである」(山上の説教)と併せて聴かないと真意は分かりません。「あなたがたを滅ぼす偽善に禍いあれかし」と言って、「幸いである」と同じだけ「不幸である」にも憐れみの御心が込められています。御心は、人間の使う言葉で律法に表され、人に分かるようにされています。本当だなと心から納得できるようにされています。ところが律法学者やファリサイ派また偽善性を秘めた弟子たちは、親の心子知らずの有様でした。そこで主は律法に込められた御心を悟らせないその正体を、自身の内側にある無理解であると指摘されます。「ぶよ一匹漉して除くがらくだは飲み込んで」、「強欲(直訳は略奪品)と放縦(直訳は力がない、自制心)」を内に抱え御心を知ることがない。そうして、人を利用し自分をそびやかすばかりとなる。そのように内側を持ち、外側では義人ぶるのでは、墓はけがれていると白く塗るのと同じで「偽善と不法で満ちて」神様と義しくお付き合いできていない。
 お墓の遺体や遺骨に敬意を払わず外側を白く塗るのは、偽善の上塗で、それは預言者の墓や正しい人の記念碑建てる時にも窺えると主は言われます。自分たちは先達の顕彰をする程だから、預言者の血を流す側の人間ではない。旧約の預言者たちは危機の時代に遣わされました。大国間に挟まれてどちらに付くのが有利か、生き延びられるかと右往左往する人々に「みことばの飢饉」と訴えました。御心に聞かないから迷走するばかりだと鋭く警告しますと、預言者は迫害されました。顕彰碑を建てて自分たちはあの時代の迫害者とは違うと言うのは偽善でしかない。私たちの国が犯した戦争に対して、自分はその時生まれていなかった、加担していないと言い逃れするのと同じです。内側に偽善性を抱えたままです。
 それで「先祖の始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか」と主は厳しく迫られます。偽善の仕上げをすれば地獄の罰は必至であると。弟子たちは加害者にもなり得るし、被害者にもなり得ました。今の私たちにしても同じです。「殺し、十字架につけ〜街道で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する」。ここには、実際にマタイの教会が受けた迫害が反映していると言われます。カインとアベルの兄弟殺しから始まり、聖所と祭壇の間で殺されたゼカルヤの血に至るまで、神は目の前でなされたことを水に流されない。「正しい人の血は全て、あなたたちにふりかかってくる」から、だれも責任逃れはできない。
 主は「エルサレム、エルサレム」と嘆かれます。神殿のある町、神が共ないたもう町を擬人化して呼びかけられます。これまで七つの「不幸である」は、どれも「ウーアイ」(原語のまま)という呻き声でした。それで、文語訳や口語訳では「ああ、エルサレム、エルサレム」と訳されました。主の苦悩は言葉にならないくらい深い。しかし、主は茫然自失なさっているのではありません。「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」と言われます。これは旧約聖書で繰り返し語られています(イザヤ書31:5、詩編17:8、9など)。イザヤの時代、外敵に右往左往する人々を身を挺して守ってくださる神様の姿が譬えられました。また詩人は「自分の肥え太った心のとりことなり〜傲慢なことを言う」敵に囲まれる中で「あなたの翼の陰に隠してください」と祈り求めました。旧約時代からの神様のお心は変わっていないことを「めん鳥が雛を羽の下にあるめるように〜」に込めて主は語られました。ところが主がやって来られても「だが、お前たちは応じようとしなかった」。それで「お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」と言われます。
 主は見捨てておられるのではありません。「主の名によって来れれる方に、祝福があるように」と続けておられます。十字架の時にも語られるみことばです。主は、荒廃の極みである十字架に向かわれます。私たちは十字架という御翼の陰に集められたいと思います。

 

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