札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「命の等価」
マタイによる福音書26章14-29節
牧師 堤 隆
4月17日 復活節主日礼拝説教より
「教会の声」説教(2022年5月号)

  そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。
  除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」
 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
26:29 言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



 十字架につけられるために引き渡される」との主ご自身の予告は、ユダの「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」で実行に移しました。こう口にするユダは「十二人の一人」と紹介されます。弟子選任の時には「裏切った〜ユダ」と紹介されたユダが、実際に手を下すと「十二人の一人」と紹介されます。こう言って、裏切りは十二人全体のものであるとマタイ福音書は申します。ユダは裏切りを実行に移します。三度に渡って予告されてきた十字架が、塗油の女の時にはその十字架が福音であると示されている最中でした。重罪人が架かる十字架が救いであるとは、ユダには信じられませんでした。逆に、師に裏切られたと思って裏切り返した。根深い人間の罪が正体を晒した。ユダは祭司長のもとに行って、「何かくれたら引き渡す」(原文の順序)と持ちかけて物々交換を申し出ました。それで祭司長たちはユダの前に銀貨30枚を「置いた」(直訳)。主は銀貨30枚と値踏みされました。銀貨30枚は旧約聖書では市場で売買される羊一頭、奴隷一人の値段です。主はこれと同程度に値踏みされました。家畜や奴隷と同程度の値段にユダは同意します。却って、これっぽっちの者だったと溜飲を下げたのかも知れません。等価交換しないことで裏切りが成り立ちました。  ユダの手による十字架準備とは別に、もう一つの準備が進められていました。主ご自身が過越の食事を準備しておかれました。晩餐会場や料理の準備ではありません。過越の食事を「わたしの時が近づいた」とおっしゃって、ご自分を過越の子羊に重ねておられます。出エジプトは、奴隷の地エジプトで鴨居に子羊の血が塗られた家だけが滅ぼされずに過ぎ越されたことから始まりました。解放の先駆けが過越の子羊でした。それが、「わたしの時」=十字架の時に再現されると言われた。主は不当評価で等価交換にならない銀貨30枚に身を委ねられました。エジプトでは奴隷(人)も羊(動物)も同じ値段であることに驚かされますが、神の子は自ら子羊・奴隷と等価になられました。主は奴隷に身を置き、過越の子羊となって救いの犠牲となるために、不当な評価・立場に身を置いて血を流すことへと進まれました。それは信頼の裏切りという人の罪の正体を根本から覆すためでした。  主が「十二人を一緒に食事の席に着かれた」ことは、ユダ一人に限らず十二人全員が裏切る可能性を秘めていることを表しています。それで「アーメン、あなたがたに言う。あなたがたの中の一人が」(12節直訳)と「あなたがた」を繰り返して強調されます。ただ罪を暴かれるのではありません。あなたがた全員の罪をわたしは負うとおっしゃいます。しかし、弟子たちには分かりません。「弟子たちは非常に心を痛めているのですが、悔い改めには至っていません。「まさかわたしのことでは」と言い出す始末でした。自分が先生の信頼を裏切る者であると認めていません。弟子たちの中で暗黙の犯人探しが始まると、根拠のない言い逃れをするために「まさかわたしでは、、」と言い出しました。それで主ははっきりと、「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者がわたしを裏切る」と言われました。当時食事を共にすれば「食卓紐帯」table bandという堅い絆で結ばれることになりました。その現場で裏切りが行われた訳です。それで、主は「生まれなかった方が、その者のためにはよかった」と言われます。「マシだった」ではなく「よかった」ですから、主は裏切る罪人を憐んでおられます。ユダには分りません。「まさかわたしのことでは」としらばくれます。しかし主は「あなたはそう言うのだね」とユダの心を見抜かれます。  覆いようもなく、罪が正体を晒し始めると、そこに救いが差し向けられました。主が「わたしの時」即ち十字架がすでに過越の食事から始まっています。「これはわたしの体である〜流されるわたしの血」と言われます。わたし自身が過越の子羊となると身をもって示されます。わたしの肉を食べわたしの血を飲んで、あなたがた自身の血肉としなさいと言ってくださいます。ご自分の命を私たちの代価にしてくださいました。命の代価は命しかないからです。  主は十字架にかかり甦られました。そして只今現在も生きておられます。甦りの主の命が、わたしの命と等価とされていることを深く受け止めたいと思います。
 

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