札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「霊の実を結ぶために」ガラテヤの信徒への手紙51626 <
ガラテヤの信徒への手紙5章16-26節
牧師 堤 隆
2月12日 礼拝説教より
「教会の声」説教(2023年3月号)

 わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



  16節「わたしが言いたいのは」は、5回目です。以前の4回もそうでしたが、「わたしの言うことを聞け」という命令ではありません。「主をよりどころとして~確信しています」(10節、直訳)ですから16節は主が間に立っていて下さるので、わたしの言うことを聞いてくれると確信していると言っています。そして「霊の導きに従って歩みなさい」と勧めます。4章でキリスト者は「霊によって~生まれた者」・「自由の身の女から生まれた」と言ったことを受けています。神の霊によって自由な者に生まれ変ったのだから、その霊の導きのままに行きなさい。「そうすれば、肉の欲望を満足させるようなことはありません」と畳みかけます。これは、聖人君子のように肉欲を捨てよと言うのではありません。
 この「欲望」の原語は「上に+心を」から出来ています。人を虜にする欲ではありませんから、向上心の満足のことではありません。聖霊によって自由な者に生まれ変わったからには、向上心(=信心)ではなく霊の導き(=信仰)によって歩もうではありませんかと訴えます。
 17節はそれを明らかにします。「肉の望む(向上心)ところは~霊の望むところ(向上心)~」とは「対立し合っている」。どちらも向上心であるのに相反するばかりか、人はそのジレンマに陥っているので悩ましいと指摘します。これは実際的なことです。多くの宗教ではこのジレンマを乗り越えるために、修行を積んで克服することが考えられました。しかし、パウロは鍛錬して信心を篤くせよとは言いません。そんなことではこのジレンマは克服できないことを身を持って知っていたからです。肉の向上心も霊の向上心もどちらも神に向いますから厄介です。「信じているのだから、自分の願い・都合を叶えて欲しい」と、「信仰によって神様と自由に交わる」の二つの板挟みをパウロは身をもって経験していました。その結果、「自分のしたいと思うことができない」ところまで分裂してしまいました。それで、「霊に導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません」(18節)と言い切ることができました。自分の都合や勝手を神に押し付けるなら、律法で裁かれざるをえません。しかし、神の霊に導かれているなら、神によって裁かれることはない。パウロは、信心・熱心ではなく、信仰・御心のままに歩む幸いを訴えます。
 理想論ではありません。パウロは現実から目を離しません。「肉の欲」と言っていたのを「肉の業」(19節)と言うようになります。肉は欲に留まらず、必ず業となって心の外に現れ出るからです。「自分のしたいと思うことができないのです」(16節)は「向上心は完遂しない」(直訳)です。肉の欲はたとえそれが神に向かっていても、神にまで至らず肉の業に終わる。19節以下に肉の業が列挙されています。最初の「姦淫」は道徳に留まりません。十戒の「姦淫(ナーアフ)してはならない」は「偶像礼拝(ナーアフ)をしてはならない」とも読めます。どちらも人格を損ないます。「敵意」以下は他者を傷つける肉の業です。さらに「泥酔」以下は自分自身を失うことです。このような自他ともに滅ぼす肉の業は「神の国を受け継ぐことはできません」(21節)。
 「これに対して、霊の結ぶ実」(22節以下)と果実が譬えにされます。実際の果実も農夫の業というよりも、神が実らせて下さるものです。列挙されているものはいずれも、他の人との関係です。みんなは自分に良くすべきだというわがままではありません。ここには自分が他の人に良くすることが掲げられています。そうできるのは「キリスト・イエスのものとなった人たち」(24節)だからです。主は私たちの肉の欲・業を十字架に架けてしまわれました。それで、私たちは自分が損をしても傷んでも「霊の導きの従って生き~前進」(25節)できるようにされました。「霊の導き」ですから、「うぬぼれ(=「カラの栄光」直訳)ません。虚栄では「互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりする」ばかりです。しかし、キリストの栄光に入れられている私たちは、虚栄に走りません。霊の実を祈り求めて行きたい と思います。
 

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