札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
正気になって身を正し」
コリントの信徒への手紙 1 15章20〜34節
牧師 堤 隆
4月9日 復活節礼拝説教より
「教会の声」説教(2023年4月号)

 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか。また、なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか。兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう。もし、死者が復活しないとしたら、/「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります。思い違いをしてはいけない。「悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする」のです。正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない。神について何も知らない人がいるからです。わたしがこう言うのは、あなたがたを恥じ入らせるためです。 
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



 パウロはこの章前半で「キリストが復活しなかったのなら〜」(14節)、「キリストが復活しなかったのなら〜」(19節)と反語のように繰り返しました。キリストの復活がなければ我々は無駄で惨めな者でしかない。「この世の生活」にしか望みをおけないからです。望みがこの世だけのものなら、死んだら望みはない。虚しく死んで行くしかない。どんなに懸命に生きても無駄に終わる。そんな一抹の不安、心配、いや実際の惨めさを誰もが心の一隅に抱えてるのではないでしょうか。そのわれわれの虚しい死、最も惨めな死をキリストが死んで下さった。それが「しかし、今や」(20節直訳)です。「キリストは死者の中から復活し」、事態は大きく転換しました。原文は受動態で書かれています。「しかし、今や、キリストは神によって甦らされた。」神は我が子だけを、虚無・永眠の中から甦らせたのではありません。神は御子を「眠りについた人たちの初穂」とされました。人の死を虚無から眠りに、再び目覚めるものとへと変えてくださいました。
 このころの教会ではキリストの生き証人たちが世を去り始めていました。甦りの主に直にお会いすることができた者たちが、次第に死んで行きました。そこに途惑いが生まれました。キリストは甦ることができたが、自分たちは死ぬばかりなのではないかと。パウロはその途惑いを知って、生きている間だけしか望みえないのなら、最も惨めな者になるではないかと喚起しました(19節)。虚しい「死」の最たるものがキリストの十字架でした。しかし、同時に十字架は私たちの虚しい死を終わりにしました。それで、人は一切の虚しさから解かれました。パウロはこれを身に受けました。「神の教会を迫害し」て神に背き死ぬべき者が、甦りの主に出会い「月足らずで生まれたようなわたし」とされた。それはひたすら「神の恵によって」(10節に2回)でした。パウロにとって神の恵は才能・財産ではなく、何より罪の赦しでした。もちろん、罪は赦されましたが無くなった訳ではありません。罪赦されて、罪との戦いができるようになりました。23節の「順序」は軍隊用語だと言われます。戦いの順序は、まずキリストの死者の中からの復活、次にこの「初穂」に続くキリスト者の復活、そして罪の「世の終わり」です。 
 最終戦において「最後の敵として、死が滅ぼされます」(26節)。その様子はまるで大政奉還のようです。この世の権勢がすべて神様に還されます(24節)。どう生きても最後は死ぬ、どんなに懸命に真摯に生きても死にネジ伏せられると思いしめらているかもしれません。反対に、死後をこの世の延長と幻想を抱く人もいます。それでお棺に故人の好物や身の回り品を入れたりする。どちらも、「死」を正視しません。直視せず、目を背けるか幻想を見るかです。キリストはその最後の敵である死を滅ぼすと。すべてを服従させられます(27、28節)。死をも服従させられる。ヨハネ福音書ではこれが「死んでも生きる」と語られています。死に服従させられていた者が、キリストの復活の勝利によってその服従から解かれる。そればかりか、死んでもキリストに守られる。それを「死んでも生きる」と申します。
 ここで再び反語表現で「そうでなければ」(29節)とパウロは続けます。そうでなければ「死者のための洗礼」は無駄になると申します。これがどういうものであったのかと200ぐらいの説があるそうですが、死んだ者に代わって洗礼を受ける(鎮魂)とか、死者と交わること(先祖崇拝)ではない点は共通しています。死者が神との交わりに入れるようにするものであったようです。わたしたちの教会でも、教会員の家族の方が未信者であっても葬儀をします。家族が故人の死後を神様に託すことはできるからです。これも、死んでも生きるという信仰によります。
 最後に「思い違いをしてはならない」(33節)と申します。どうせ復活するのなら何をしていてもいいと酔いしれてはならない。「正気になって身を正しなさい」(34節)と申します。キリストの復活に続くものとして正気になって身を正して歩んでまいりたいと思います。
 

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