札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「罪という謎」
ローマの信徒への手紙 7章12〜25節
伝道師 田中康尋
6月25日 礼拝説教より
「教会の声」説教(2023年7月号)

 こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
  それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



 『ローマの信徒への手紙』は、初期キリスト教の伝道者であったパウロによって書かれました。パウロは、新約聖書に収められているいくつもの手紙を書いているんですが、この『ローマの信徒への手紙』には、ほかの手紙と決定的に違っていることが、1つあります。それは、見ず知らずの人たちに宛てて書いていることです。
 ではどうして、知らない人たちに手紙を出したのでしょうか?それは、近いうちに立ち寄る予定のローマの教会に、「私は決して、極端な教えを広めている怪しい伝道者ではありませんから、警戒しなくて大丈夫ですよ」と知らせておきたかったからなんですね。パウロは、今で言うギリシャのエーゲ海沿岸にある「コリント」という町から、ローマに向けて手紙を出しています。ギリシャ文化の中心から、ローマ文化の中心に向けて、手紙を送っているんですね。そうなりますと、普段話す言葉はギリシャ語とラテン語で違いますし、歴史や文化もかなり違う地域ですよね。言葉や文化を超えて、パウロはローマの人たちとコミュニケーションを取ろうとしています。
 では、言葉や文化を越えても、必ず通じるものといえば、何でしょうか?やはり何といっても、自然科学でしょう。上に向かって石を投げたら、下に落ちてくる。水素と酸素が結びついて水ができる。そうした自然の法則は、言葉や文化・価値観が違っても、変わることがありません。わたしの五体には もう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。(23節)
 「法則」という言葉が何度も出てきています。この言葉は、「律法」と訳されているのと全く同じ言葉です。イスラエルのローカルな宗教の律法についてパウロがあれこれと考えたことを、遠く離れたローマの人たちにも伝わるように、一種の「自然法則」の形にまとめようとしています。「心の法則」と訳されている部分の「心」という言葉は、古代ギリシャ哲学でよく使われる言葉です。単なる気持ちのことではなくて、「知性」、つまり、頭で考える力のことです。「心の法則」つまり「知性の法則」と、「もう一つの法則」が、いつも激しく戦っているのだということですね。人間の知性で捉えることも、コントロールすることもできない謎の法則。それが「罪の法則」と呼ばれています。
ところで、パウロが通常、手紙を書こうとするのは、どんなときでしょうか?たいていは、宛先の教会で何か人間的なトラブルがあったり、教えをめぐって意見の対立が起きたりしたときです。問題をおさめるために、パウロは手紙を出してアドバイスをします。しかし、この『ローマの信徒への手紙』は、自己紹介のために書かれています。相手方のことではなくて、自分自身について書いているんですね。
 それでは、善いものが わたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。〔…〕(13節)
 ここを含めて、今日の箇所全体を見渡してみますと、何度も「私」という言葉が出てきているのが、お分かりになると思います。この「私」という言葉は、単に自分のことを指して言う「僕」「俺」「私」の私ではありません。パウロが人々を説得するときには、自分がイエス・キリストと出会ったときの体験を生き生きと語る、というのが、いわばお家芸です。しかし、ここではあえて、自分の体験を語ることを封印しているように見えます。ここで言われている「私」というのは、したがって、「私パウロ」という意味を超えているのでしょう。今日の言葉でいうなら「自己」や「自我」というような、自分が自分であるという、自分自身の根っことなる部分のことが言われているのだと思います。それは、過去にどんな体験をしたかに関係なく、人間であれば、誰もが持っているものです。皆が持っている「自分の根っこ」という意味で、パウロは「私」という言葉を聞いてもらいたいのでしょう。
 皆さん、昔、学校で理科の時間に、実験室に行って、透明なガラスでできた試験管の中に、色々な物質を入れて、実験をしたことがありますよね。その試験管の中で起こる現象は、もちろん、その中だけで起こるのではなくて、地球上のあらゆる場所で起こりうることです。それと同じように、パウロは「私」という試験管を使って実験をしています。「コリントにいる私という試験管の中で起きていることは、ローマにいる皆さんにも当てはまりますよね?」というふうに、一度も会ったことのないローマの人たちに訴えかけています。そして、そういうことを行っているのは、もはや わたしではなく、わたしの中に住んでいる 罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを 知っています。〔…〕(17~18節)
 「わたしの肉には」というところは、正確に読むと「私の肉の中に」と書かれています。「私の中に」「私の肉の中に」というふうに、「この中なんだ!」と繰り返しているんですね。「私」という自己を1つの空間と捉えて、その中に何があるのかを観察しています。そこには、良いものは入っていなくて、罪が入っているということを確かめています。わたしの五体には もう一つの法則があって 心の法則と戦い、わたしを、五体の内(うち)にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。(23節)
 「わたしの五体には」というところもやはり、「私の五体の中には」と書かれています。そして、「五体の内にある罪の法則」と重ねるように言って、「この中にあるんだ!」と、「私」の体という場所を際立たせています。そこにあるのは「罪の法則」であるといいます。罪を、1つ1つの悪い行いとして捉えるのではなく、それらを生み出す「法則」と言い表しています。これは、正鵠を射る絶妙な表現というほかないでしょう。例えるならば、試験管の中に有害な物質できてしまったとしたら、その中身を流しに捨てて、試験管をピカピカに洗うことはできますよね。しかし、そうしたからといって、その物質が生み出される法則が消えてなくなることはありません。同じように、私たちも、自分の中に悪い考えがあるときに、反省して、心を入れ替えて、内面をいくらかきれいに磨くことはできるでしょう。しかし、そうしたからといって、悪いものが生み出される法則が消えることはないんですね。また、法則が存在していることを確認できたとしても、その法則自体をつかみ取って、どうにかすることはできません。根本的に取り除くことができない、逃れようのない法則。つねにその下にあるのが、人間の本当の姿なのだと、パウロは言います。そのような「法則」としての罪をパウロが発見することができたいきさつは、こう書かれています。
 それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。(13節)
 「正体を現す」ですとか「限りなく邪悪」などと、何だか時代劇だとかヒーロー物のような雰囲気が漂っていますよね。しかし、正確に読みますと、「罪がその正体を現す」と訳されているところは、「罪が罪として現れる」と書かれています。また、「罪は限りなく邪悪なものである」と訳されているところは、「罪が十分に罪あるものである」と書かれています。つまり、どちらも、「罪が罪としてはっきり分かるように現れた」ということなんですね。試験管の中に入っている液体に、試薬を一滴ぽとりと落として振ると、液体の色がぱっと変わって、その液体のもつ性質がはっきりと分かる。そんなふうに、私の中に、罪に傾いている性質があることが、はっきりと観察されたということでしょう。
 その試薬に当たるものが「律法」です。「律法」とは、ユダヤ教の数え方で613もあると言われる、『旧約聖書』に書かれた様々な決まり事のことです。それらを全て守ることは、どんなに努力してもパウロにはできなかったということですね。律法違反を数多く起こしてしまったということです。キリスト教会で聖書の言葉を聞く私たちには、イエス・キリストが教える「最も重要な掟」があります。心を尽くし、力を尽くして、全身全霊で、神と隣人を愛すること。それが最も大切な律法なのだとキリストは教えていますから、これが私たちにとって、自分自身を確かめる試薬になるのでしょう。パウロは、「罪の法則」が働く仕組みについて、同じ内容を何度も繰り返すようにして、丁寧に説明しています。その中から1つを見てみたいと思います。
 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。(15節)
 「自分のしていることが分かりません」というのは、今していることというよりは、それがどんな結果をもたらすのか分かりませんということです。結果に重きを置く言葉が使われています。人間の知性では、結果を予測することができない、どうしても捉えられない謎がここにあると言われているんですね。「これをしよう」と頭で考えていることと、実際にすることは違うものになってしまうんだと訴えています。望んでいることとは正反対の、憎んでいることをしてしまうというのは、極端な言い方のように聞こえるかもしれません。しかし、律法に従うときには、合法か違法か、有罪か無罪か、2つに1つしかないんですよね。したがって、律法を守れないのであれば、それは憎むべき悪いことをしていることになるんですね。
続く16節は、少々分かりづらい文になっています。
 もし、望まないことを行っているとすれば、律法を 善いものとして認めているわけになります。(16節)
 「望まないことを行っている」というのは、望んでいない律法違反をしているということです。しかし、自分が律法違反をしているという自覚があるということは、頭では「律法は守るべきものだ」と分かっているわけですから、「律法は守られるべき良いものだ」と認めていることになるんですね。「自分は望んでいないことをしている」と自覚することは、裏返せば、自分が望んでいるものの良さを改めて知ることなのでしょう。望んでいるもの、つまり、自分に与えられた律法の素晴らしさが、はっきりと見えてくるのだと思います。
人生という広い実験室の中で、私たちがイエス・キリストの命じる愛の掟とともに生きていくならば、私たち自身の中に「罪の法則」があると思い知らされる場面は、何度もやって来ます。「わたしは なんと惨めな人間なのか!」パウロと一緒に、そう叫びたくなることもあるに違いありません。
 しかし、まさにその痛々しい叫びを上げるときに、「神を愛し、人を愛しなさい」というイエス・キリストの教えの素晴らしさを、私たちは痛感するではないでしょうか。そのような経験を重ねていくことが、「キリストの愛に生きる」ということなのだろうと思います。キリストの愛を目指し、そして打ち砕かれながら、今週も日々の歩みを進めていきましょう。
 

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