旧約聖書の律法は、古代イスラエルの法律でした。現代でも、法律には「こういう場合には、こうしなければならない」という細かい条文が、びっしりと並んでいますよね。そうした条文を隅々まで全部覚えるのは、法律家のような専門家でなければ、なかなか難しいことです。そこで、専門家ではない一般の人向けに「とりあえず、これだけ知っておけば、大きな間違いを犯すことはないですよ」と教えたものが、十戒であったと思われます。
旧約聖書自身は、十戒を「十の言葉」と呼んでいます。十という数は、小さな子供からお年寄りまで、誰でも両手に収まることを表しています。誰にでも覚えられ、思い出せる言葉が「十の言葉」なんですね。「もし忘れそうになったら、指を折って、一つずつ思い出してみてください」というメッセージが、十という数には込められています。
十戒は、神についての言葉で始まり、隣人についての言葉で終わっています。後にイエス・キリストは、旧約聖書の精神を「神への愛」と「隣人への愛」と言い表していますが、まさにそのような考え方が、この十戒にも見られるんですね。
〔…〕わたしは、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。(9~10節)
「わたしを否む者」という部分は、原文では「私を憎む者」と書かれています。「憎む」「愛する」という両極端な気持ちが、ここで比べられています。それらは、同じ重さではありません。憎しみに対する報いが「三代、四代」とある一方、愛に対する報いは「幾千代」とあります。旧約聖書が書かれた言語には、日本語の「億」や「兆」のような、非常に大きな数を表す言葉がありません。「一万」で、早くも「無限」という意味にもなるんです。ということは、「幾千」という数は、無限に近い、数えきれないほど大きな数を表しているといえますね。神の「慈しみ」の限りなさが、言い表されています。
「熱情の神」という部分は、正確に訳すなら「嫉妬深い神」となります。もしほかの神を選ぶなら、嫉妬するということですね。「神が嫉妬する」と聞くと、なんだか、僻んで心がねじけているようにも聞こえます。しかし、ここで言われているのは、神が人間に対して抱く愛が、人間が神に対して抱く愛を、はるかに上回っているということなのでしょう。私たち人間の言葉では「嫉妬」と表現するしかないほど、一人の人間にこだわり、執着し続けるのが、神の愛であるといいます。「神を愛する人間が、この世界に、ほかに数えきれないほどいたとしても、思い入れのあるこの一人を、決して失いたくない。」そのような強い思いが、「嫉妬」という言葉に滲み出ています。人間が抱く「神への愛」と「隣人への愛」に先立つものとして、神が人間に対して抱く、はるかに大きな愛があるのだと述べられているんですね。
殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。(17~19節)
ここに挙げられていることは、「隣人への愛」と言うには、あまりに消極的というか、最低限過ぎるように思われるかもしれません。しかし、この誰にでも分かる、シンプルな言葉選びにこそ、誰でも指を折って思い出せる言葉で語りかける、聖書の心配)りが感じられるのではないでしょうか。
命も、財産も、人間関係も、すべては神の大きな愛の現れであるという考え方が、これらの言葉の背景にあります。「嫉妬」と呼ばれるほどの大きな愛を神から受けている一人が、私たちの間で失われたり、損なわれたりすることがないように、私たちはお互いに、隣人とその大切な持ち物を、神の前で守り合っていかなければならないということでしょう。
私たちが指を折って、十戒の言葉を一つ一つ思い出しながら、周りを見渡してみるとき、神の大きな愛を、そこかしこに改めて見つけることができると思います。今週も、道しるべとなる神の言葉に導かれて、私たちの行く先々で、その愛に答えていきましょう。
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