札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「十戒」
申命記 5章6-21節
伝道師 田中康尋
11月19日 礼拝説教より
「教会の声」説教(2023年12月号)

 あなたに告げたとおり、あなたの神、主はあなたを祝福されるから、多くの国民に貸すようになるが、借りることはないであろう。多くの国民を支配するようになるが、支配されることはないであろう。あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。「七年目の負債免除の年が近づいた」と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう。彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。
  同胞のヘブライ人の男あるいは女が、あなたのところに売られて来て、六年間奴隷として仕えたならば、七年目には自由の身としてあなたのもとを去らせねばならない。自由の身としてあなたのもとを去らせるときは、何も持たずに去らせてはならない。あなたの羊の群れと麦打ち場と酒ぶねから惜しみなく贈り物を与えなさい。それはあなたの神、主が祝福されたものだから、彼に与えなさい。エジプトの国で奴隷であったあなたを、あなたの神、主が救い出されたことを思い起こしなさい。それゆえ、わたしは今日、このことを命じるのである。 もしその奴隷があなたとあなたの家族を愛し、あなたと共にいることを喜び、「わたしはあなたのもとから出て行きたくありません」と言うならば、あなたは錐を取り、彼の耳たぶを戸につけて刺し通さなければならない。こうして、彼は終生あなたの奴隷となるであろう。女奴隷の場合にも同様にせねばならない。自由の身としてあなたのもとを去らせるときは、厳しくしてはならない。彼は六年間、雇い人の賃金の二倍も働いたからである。あなたの神、主はあなたの行うすべてのことを祝福される。
 牛や羊の雄の初子は、みなあなたの神、主に奉献しなければならない。牛の初子を仕事に使ってはならない。羊の初子の毛を刈ってはならない。あなたの神、主の御前で、年ごとに、主が選ばれる聖所で、家族と共にそれを食べなさい。初子の足や目、あるいはほかのどこかに大きな傷があれば、あなたの神、主にいけにえとして屠ってはならない。

 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



旧約聖書の律法は、古代イスラエルの法律でした。現代でも、法律には「こういう場合には、こうしなければならない」という細かい条文が、びっしりと並んでいますよね。そうした条文を隅々まで全部覚えるのは、法律家のような専門家でなければ、なかなか難しいことです。そこで、専門家ではない一般の人向けに「とりあえず、これだけ知っておけば、大きな間違いを犯すことはないですよ」と教えたものが、十戒であったと思われます。
 旧約聖書自身は、十戒を「十の言葉」と呼んでいます。十という数は、小さな子供からお年寄りまで、誰でも両手に収まることを表しています。誰にでも覚えられ、思い出せる言葉が「十の言葉」なんですね。「もし忘れそうになったら、指を折って、一つずつ思い出してみてください」というメッセージが、十という数には込められています。
 十戒は、神についての言葉で始まり、隣人についての言葉で終わっています。にイエス・キリストは、旧約聖書の精神を「神への愛」と「隣人への愛」と言い表していますが、まさにそのような考え方が、この十戒にも見られるんですね。 
 〔…〕わたしは、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしをむ者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしのめを守る者には、千代にも及ぶしみを与える。(9~10節)
 「わたしをむ者」という部分は、原文では「私をむ者」と書かれています。「憎む」「愛する」という両極端な気持ちが、ここで比べられています。それらは、同じ重さではありません。憎しみに対するいが「三代、四代」とある一方、愛に対する報いは「千代」とあります。旧約聖書が書かれた言語には、日本語の「億」や「兆」のような、非常に大きな数を表す言葉がありません。「一万」で、早くも「無限」という意味にもなるんです。ということは、「幾千」という数は、無限に近い、数えきれないほど大きな数を表しているといえますね。神の「慈しみ」の限りなさが、言い表されています。
 「熱情の神」という部分は、正確に訳すなら「嫉妬深い神」となります。もしほかの神を選ぶなら、嫉妬するということですね。「神が嫉妬する」と聞くと、なんだか、(ひが)んで心がねじけているようにも聞こえます。しかし、ここで言われているのは、神が人間に対してく愛が、人間が神に対してく愛を、はるかに上回っているということなのでしょう。私たち人間の言葉では「嫉妬」と表現するしかないほど、一人の人間にこだわり、執着し続けるのが、神の愛であるといいます。「神を愛する人間が、この世界に、ほかに数えきれないほどいたとしても、思い入れのあるこの一人を、決して失いたくない。」そのような強い思いが、「嫉妬」という言葉に(にじ)み出ています。人間が「神への愛」と「隣人への愛」に先立つものとして、神が人間に対してく、はるかに大きな愛があるのだと述べられているんですね。
 殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。(17~19節)
 ここに挙げられていることは、「隣人への愛」と言うには、あまりに消極的というか、最低限過ぎるように思われるかもしれません。しかし、この誰にでも分かる、シンプルな言葉選びにこそ、誰でも指を折って思い出せる言葉で語りかける、聖書の心配(こころくばり)が感じられるのではないでしょうか。
 命も、財産も、人間関係も、すべては神の大きな愛の現れであるという考え方が、これらの言葉の背景にあります。「嫉妬」と呼ばれるほどの大きな愛を神から受けている一人が、私たちの間で失われたり、なわれたりすることがないように、私たちはお互いに、隣人とその大切な持ち物を、神の前で守り合っていかなければならないということでしょう。
 私たちが指を折って、十戒の言葉を一つ一つ思い出しながら、りを見渡してみるとき、神の大きな愛を、そこかしこに改めて見つけることができると思います。今週も、道しるべとなる神の言葉に導かれて、私たちの行く先々で、その愛に答えていきましょう。

 

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