札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
火の中をくぐり抜けて
コリントの信徒への手紙一 3章10-23節
教師 堤 隆
1月7日 礼拝説教より
「教会の声」説教(2024年1月号)

 わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。「神は、知恵のある者たちを/その悪賢さによって捕らえられる」と書いてあり、また、/「主は知っておられる、/知恵のある者たちの論議がむなしいことを」とも書いてあります。ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



 「わたしは〜熟練した建築家のように」(10節)は、「わたしたちは〜神の建物なのです」(9節)に続いていますが、例えが建物から建築家に替わっています。「神からいただいた恵みによって、知恵ある建築家のように」(直訳)、「土台を据えました〜家を建てています〜どのように建てるか」と「神の建物」を建てる建築家だと言います。教会のことですが、会堂や組織のことよりも、「イエス・キリストという既に据えられている土台」(11節)に注目します。誰が柱で誰が屋根かよりも土台が重要だからです。コリント教会では「アポロに、パウロに、ケファに」と派閥を競う有様でした。まさに「台無し」です。イエス・キリストという土台の上に恵の知恵で神の建物を建てる。教会建設に私たちが参加し、私たち自身も建てあげます。誰かのためになれるならこんな幸せはありません。何が出来る出来ないは問題ではありません。赤ん坊は何も出来ませんが、居るだけで周りの人々を喜ばせます。
 「神の建物」の「建築家」は材料を問題にしません(12節)、金からわらまでで教会や自分の等級が決まるのではないからです。しかし、「おのおの、どのように建てるか〜おのおのの仕事」(1013節)は「かの日に〜吟味」されます。「吟味する」の原語は「精錬する」が第一義です。鉱物が火で溶かされて不純物が取り除かれるように、「神の建物」も「建築家」も精錬されます。宗教改革者カルヴァンは「聖霊の火」によると申しました。贅沢な貴金属が散りばめられたものは残り、草やわらでできたものは焼け落ちるのではありません。自分は金だと誇ったり、逆にわらだと心配する必要はない。イエス・キリストを土台としているかどうか、主イエスに見合っているかだけが明るみに出されます。ここで、パウロは譬えを代えます。天才的な閃きでどんどん連想するのではありません。強烈に罪を意識するからです。「その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」と(15節)。火をくぐり抜けて救われるといっても、密教の火渡りではありません。金銀も火に溶かされますから、火の中では耐えられません。材料の強度の話ではない。わらで建てられていても、火の中をくぐり抜けて救われる。火災で全焼しても土台は残るように、イエス・キリストという土台が残っているかどうかだけが吟味される。パウロは、神様による吟味に到底耐えられない罪の自分が、なお「火の中をくぐり抜けて来た者のように救われ」たことを確信しています。
 これ以降はもう譬えではなく直截に語ります。「あなたがたは神の神殿であり」(16節)と言い切ります。火で焼いて耐火性が認められたら、神殿と認められるのではありません。もう既に神殿であると申します。どこで、火をくぐり抜けて来たのか?わたしたちは各々試練のことではない。聖書が言う「火」は聖霊の火であって人生の試練のことではありません。それなら、どこでどのようにして聖霊の火による裁きを受けたか?わたしたちはどうして焼け落ちずに神の神殿にされたのか。資質や努力では無理です。裁きを受けたこともありません。神の裁きを受けられたのはただお一人、十字架の主のみです。それでわたしたちは焼かれることを免れました。「神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(16節)と自分の実際を見よと言います。聖霊が裁き手としてではなく、わたしたちの内に住んでくださる。聖霊がわたしたちを神の神殿にしてくださる。神を礼拝し、神と共なう者としてくださる。だから、「神殿を壊す者がいれば〜滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです」(17節)。神は教会を私たちを聖別して(=ご自分のものとして)守り通してくださる。
 だから「自分を欺いてはなりません」(
18節)と申します。「自分はこの世で知恵ある者だと考えているなら」、即ち自分を偉く見せ自分だけは特別だと考えては、自分を欺くことになります。火で裁かれるべきところを救われたのが、自分であると知る。それ故「誰も人間を誇ってはなりません」(21節)と勧めます。自分を誇らなくても「一切はあなたがたのもの」(22節)、火の中をくぐり抜けて来て下さった「キリストのもの〜神のもの」だからです。キリスト、神のために生きられる幸を身に受けて、この年も歩んで参りたいと思います。

 

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