「わたしは〜熟練した建築家のように」(10節)は、「わたしたちは〜神の建物なのです」(9節)に続いていますが、例えが建物から建築家に替わっています。「神からいただいた恵みによって、知恵ある建築家のように」(直訳)、「土台を据えました〜家を建てています〜どのように建てるか」と「神の建物」を建てる建築家だと言います。教会のことですが、会堂や組織のことよりも、「イエス・キリストという既に据えられている土台」(11節)に注目します。誰が柱で誰が屋根かよりも土台が重要だからです。コリント教会では「アポロに、パウロに、ケファに」と派閥を競う有様でした。まさに「台無し」です。イエス・キリストという土台の上に恵の知恵で神の建物を建てる。教会建設に私たちが参加し、私たち自身も建てあげます。誰かのためになれるならこんな幸せはありません。何が出来る出来ないは問題ではありません。赤ん坊は何も出来ませんが、居るだけで周りの人々を喜ばせます。
「神の建物」の「建築家」は材料を問題にしません(12節)、金からわらまでで教会や自分の等級が決まるのではないからです。しかし、「おのおの、どのように建てるか〜おのおのの仕事」(10、13節)は「かの日に〜吟味」されます。「吟味する」の原語は「精錬する」が第一義です。鉱物が火で溶かされて不純物が取り除かれるように、「神の建物」も「建築家」も精錬されます。宗教改革者カルヴァンは「聖霊の火」によると申しました。贅沢な貴金属が散りばめられたものは残り、草やわらでできたものは焼け落ちるのではありません。自分は金だと誇ったり、逆にわらだと心配する必要はない。イエス・キリストを土台としているかどうか、主イエスに見合っているかだけが明るみに出されます。ここで、パウロは譬えを代えます。天才的な閃きでどんどん連想するのではありません。強烈に罪を意識するからです。「その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」と(15節)。火をくぐり抜けて救われるといっても、密教の火渡りではありません。金銀も火に溶かされますから、火の中では耐えられません。材料の強度の話ではない。わらで建てられていても、火の中をくぐり抜けて救われる。火災で全焼しても土台は残るように、イエス・キリストという土台が残っているかどうかだけが吟味される。パウロは、神様による吟味に到底耐えられない罪の自分が、なお「火の中をくぐり抜けて来た者のように救われ」たことを確信しています。
これ以降はもう譬えではなく直截に語ります。「あなたがたは神の神殿であり」(16節)と言い切ります。火で焼いて耐火性が認められたら、神殿と認められるのではありません。もう既に神殿であると申します。どこで、火をくぐり抜けて来たのか?わたしたちは各々試練のことではない。聖書が言う「火」は聖霊の火であって人生の試練のことではありません。それなら、どこでどのようにして聖霊の火による裁きを受けたか?わたしたちはどうして焼け落ちずに神の神殿にされたのか。資質や努力では無理です。裁きを受けたこともありません。神の裁きを受けられたのはただお一人、十字架の主のみです。それでわたしたちは焼かれることを免れました。「神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(16節)と自分の実際を見よと言います。聖霊が裁き手としてではなく、わたしたちの内に住んでくださる。聖霊がわたしたちを神の神殿にしてくださる。神を礼拝し、神と共なう者としてくださる。だから、「神殿を壊す者がいれば〜滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです」(17節)。神は教会を私たちを聖別して(=ご自分のものとして)守り通してくださる。
だから「自分を欺いてはなりません」(18節)と申します。「自分はこの世で知恵ある者だと考えているなら」、即ち自分を偉く見せ自分だけは特別だと考えては、自分を欺くことになります。火で裁かれるべきところを救われたのが、自分であると知る。それ故「誰も人間を誇ってはなりません」(21節)と勧めます。自分を誇らなくても「一切はあなたがたのもの」(22節)、火の中をくぐり抜けて来て下さった「キリストのもの〜神のもの」だからです。キリスト、神のために生きられる幸を身に受けて、この年も歩んで参りたいと思います。
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