札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「偏り見ない神の前に」
ガラテヤの信徒への手紙2章1-10節
牧師 堤 隆
10月30日 礼拝説教より
「教会の声」説教(2022年11月号)

  その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした。おもだった人たちからも強制されませんでした。――この人たちがそもそもどんな人であったにせよ、それは、わたしにはどうでもよいことです。神は人を分け隔てなさいません。――実際、そのおもだった人たちは、わたしにどんな義務も負わせませんでした。それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です。
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)



 1節で「エルサレムに再び上りました」というのは、1:18の「ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り」に続きます。1:18「それから三年後」と2:1「その後14年経ってから」を足すと17年が経過しています。最初の三年はアラビア伝道、次の14年はシリア・キリキア伝道に当たっています。第一回エルサレム訪問では「知り合い」=「調べる(直訳)」ました。ユダヤ人伝道をするペトロが、外国人伝道をする自分と同じ福音を伝えているかを調べました。一致していると確かめらたので、シリア・キリキア伝道に進みました。こうしてカトリックな(公同の)教会の伝道を目指しました。そして、再びエルサレムに上ったのは、各々の教会の伝道方針を更に一致させるためでした。この2章は使徒言行録15章も報じる「使徒会議」を振り返っています。今回も私的な面談ではなく2節「啓示によるものでした」といいます。1:12「イエス・キリストの啓示」=イエス・キリストが啓らかにされたこと。1:16「御子をわたしに啓示して(直訳)」=イエス・キリストを啓らかにして。イエスご自身がご自分を啓らかにされた「使徒会議」でした。信徒が礼拝でイエス・キリストを啓示されるのと同じように、教会は教会会議でイエス・キリストを啓示されました。
 公同教会の会議で、パウロは2節「主立った人たちに個人的に話し」たといいます。重鎮とかボスではなく「見なされている人々(直訳)」ですから、一目置かれている人々です。エルサレム教会の使徒たちのことです。パウロは教会の同労者に「話した」=「完全に+置く」=自分を委ねたのは、「自分が無駄に走っているのではないかと意見を求め」るためでした。自分がゴールを間違えていないか、見失っていないかを確かめようとしました。独り善がりがあるなら、教会の伝道者として糾されたいと願ってのことです。
 会議には1節「テトスも連れて行きました」。3節その「テトスでさえギリシア人であったのに割礼を強制されませんでした」。使徒言行録15章からすると、この会議の中心議題は、異邦人(ユダヤ人にとっての外国人)が教会に加わるのに割礼が必要かどうかでした。決議はテトスに反映しました。ところが、4節「潜り込んできた偽の兄弟たち」が会議を妨害しようとしました。外見上、教会員と見分けがつきませんでした。洗礼を受けた後に変質した者が現れたようです。4節「わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付け狙い」=「キリスト・イエスの中に得ている自由を付け狙い(直訳)」ました。そこで、キリスト・イエスのみが主人であって、割礼を受けたユダヤ人が異邦人の主人ではないことを確認しました。
  日本の教会は、教会員を指すレーマンを「平信徒」と訳しました。専門家ではない素人と解しました。これでは、平社員に通じてしまいます。レーマンはラオス(ギリシア語)=民→神の民を言います。神のみを主人とし、民の間では上下、優劣は無い=4節「キリスト・イエスによって得ている自由」です。それ故、万人祭司(すべての信徒が祭司の務めを負う)です。この自由は、勝手気ままではなく、誰にも支配されないものです。教会はどのようにしてキリスト・イエスによる自由を得ているのか?6節「神は人を分け隔てなさいません」=「神は人の顔を取らない(直訳)」。だれも、神に顔が利く者はいない。神に顔パスが効く人はいない。神は人を、身分、血筋、功績などの「顔」で判断されない。ひたすら、キリスト・イエスのみを主人としているかどうかをご覧になる。
 キリストによる自由の中でキリストを主人とするとき、主人からの任務があります。8節伝道の任務です。キリストの自由は何もしないとか、何でも勝手にできるのではなく、神の御委託に応えるものです。キリスト・イエスの自由を得て神をゴールとして走り続けたいと思います。
 

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